トルイ家との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 14:25 UTC 版)
チャガタイ・ハン国もチャガタイの死で混乱する。チャガタイの長男モエトゥケンは早くに戦死していたため、その後を継いだのは孫のカラ・フレグであったが、若年のために国内は混乱した。そのため、帝国の第3代ハーンにオゴデイ家のグユクが即位すると、チャガタイ家の支持を確実なものにしようとしたグユクの干渉に遭い、カラ・フレグは廃されてイェス・モンケが後継者となった。グユクがわずか2年という短い在位に終わると、またも両家連合は第4代ハーン位をめぐって争うが、オゴデイ家もチャガタイ家も先年に有力者が没して人材を欠いていたため、1251年にトルイ家のモンケが継ぐことになり、以後は徹底的なジョチ・トルイ両家の粛清に遭う。ブリやイェス・モンケらは殺され、皇后のオルガナがモンケの傀儡として立てられたのである。 モンケの死後、弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が起きると、自身の基盤を固めようとしたアリクブケの干渉に遭ってオルガナは廃され、アルグが継ぐ。だがアルグは旗色が悪くなったアリクブケを見捨ててクビライを支持、これが要因になってアリクブケは敗れた。クビライ支持者だったアルグが1266年に死去すると、養子のムバーラク・シャーが継いだ。しかしクビライもチャガタイ家に干渉し、当時自らの近臣だった、チャガタイの孫に当たるバラクを新たな君主に立てる。だがバラクはクビライの宗主権を完全に無視して、反クビライ派の巨頭だったカイドゥと同盟を結んで対抗した。1270年には親クビライ派のイルハン朝を攻めるが、アバカに大敗して一気に勢力を失い、最後はカイドゥによって殺害された。以後、チャガタイ・ハン国はカイドゥの実質的支配下で傀儡の君主が立てられる。 1301年にカイドゥが死去すると、バラクの子であるドゥアは、逆に後継者争いで混乱するオゴデイ・ハン国に介入、一方で長年敵対していたクビライ家とも和睦した。ドゥアは中央アジアからインド北部にかけて一大勢力を築き上げ、国家体制を固めた事実上の建国者・英主であったが、カイドゥの死からわずか6年で死去した。
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