挙兵露見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:38 UTC 版)
行家は4月から5月にかけて東国を廻ったが、5月初めには計画は露見した。『平家物語』によると、密告したのは熊野別当湛増である。令旨によって熊野の勢力が二つに割れて争乱に発展したため、湛増が平氏に以仁王の謀反を注進したのである。 5月15日、平氏は以仁王を臣籍降下させ、「源以光」と改めた上で、土佐国への配流を決定した。検非違使別当・平時忠は、300余騎を率いて以仁王の三条高倉邸に向かった。この中に頼政の次男・兼綱が加わっていたことから、平氏は頼政の関与は察知していなかったようである。 仲綱から知らせを受けた以仁王は、女装して邸を脱出、御所では長谷部信連が検非違使と戦って時間を稼ぎ、以仁王は園城寺へ逃れた。 16日、平氏は園城寺に以仁王の引き渡しを求めたが、園城寺大衆はこれを拒否した。以仁王は興福寺と延暦寺にも協力を呼びかけた。大寺社が相手では平氏も容易には手が出せず、数日が過ぎた。 21日、平頼盛、教盛、経盛(以上、清盛の弟)、知盛、重衡(以上、清盛の子)、維盛、資盛、清経(以上、重盛の子)、そして源頼政を大将とする園城寺攻撃の編成が定められた(『玉葉治承4年5月21条』)。この時点でもまだ頼政の関与は露見していなかったのである。 その夜、頼政は自邸を焼き、50余騎を率いて園城寺に入り、以仁王と合流した。
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