挙兵以前
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南頓県令の劉欽と樊嫺都のあいだの長男として生まれた。若いころは、一族の劉嘉と共に長安に遊学し、ともに『尚書』『春秋』を学んだことがある。
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挙兵以前
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元亨2年(1322年)、正成は得宗・北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅している。 この一連の状況は『高野春秋編年輯録』に詳しい。渡辺党を討った正成は高野山領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国阿弖河荘(阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた。 その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に根成柿の所領を没収され、さらには北条高時が興じる闘犬の飼料供出まで求められ、憤った越智邦永が自領で六波羅の役人を殺害するに至った。六波羅北方は討手として奉行人斎藤利行、小串範行らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した。 新井孝重は、正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている。新井は、得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている。 正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた。幕府は安藤氏の乱で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆した場合への不安を抱いたとされる。 ただし、前述のように『高野春秋編年輯録』、『紀伊続風土記』などの楠木氏得宗被官説の根拠として用いられる史料の大半は『太平記評判秘伝理尽鈔』の影響下にあり、その信憑性には疑問が残る。 また、楠木氏は河内金剛山の辰砂採掘を生業とし、交通を抑える武装商人の面貌を備えており、それによって軍資金を調達していた可能性がある。 加えて、正成は磯長の聖徳太子廟や四天王寺で六波羅方と戦闘を行なっているが、中世の鉱山労働者は太子信仰と深く結びついており、彼ら自身も「タイシ」と呼ばれたといい、辰砂を採掘していた可能性のある正成も太子信仰と関連があったと考えられる。
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