織田家に仕官とは? わかりやすく解説

織田家に仕官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)

豊臣秀吉」の記事における「織田家に仕官」の解説

天文23年1554年)頃から織田信長小者として仕える。清洲城普請奉行台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第織田家中で頭角現していったまた、有名な逸話として信長草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長秀吉大いに嘉(よみ)した。 永禄4年1561年8月浅野長勝養女杉原定利の娘・ねねと結婚する。ねねの実母朝日はこの結婚反対したが、ねねは反対押し切って嫁いだ結婚式薄縁敷いて行われた質素なものであった桑田忠親浅野長勝秀吉足軽組頭であり、同じ長屋暮らしていたので、秀吉浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかとしている。 永禄7年1564年)、美濃国斎藤龍興との戦いの中で、松倉城主の坪内利定鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作行い成功させた。 秀吉の名が現れ最初史料は、永禄8年1565年11月2日付け坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)。このことは、秀吉信長の有力武将の一人として認められていたことを示している。 永禄9年1566年)に、墨俣一夜城建設功績上げたとされる逸話がある。また、この頃蜂須賀正勝前野長康らを配下組み入れている。 永禄10年1567年)の斎藤氏滅亡後秀吉要請により信長から竹中重治を、牧村利貞丸毛兼利と共に与力として下に付けられている(『豊鑑』)。 永禄11年1568年9月近江箕作城攻略戦活躍したことが『信長記』に記されている。同年信長の上に際して明智光秀丹羽長秀とともに京都政務任された。 永禄12年1569年5月毛利元就九州大友氏交戦多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月出雲国奪還目指す尼子氏残党挙兵し以前尼子氏同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して元就信長山名氏背後を脅かすよう但馬国出兵依頼し、これに応じた信長同年8月1日秀吉大将とした軍2万派兵した秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長献納し但馬国への復帰許された。 元亀元年1570年)、越前国朝倉義景討伐従軍順調に侵攻進めていくが、金ヶ崎付近進軍中に盟友であった北近江浅井長政裏切り織田軍を背後から急襲した浅井朝倉挟み撃ちという絶体絶命危機であったが、秀吉池田勝正明智光秀と共に殿軍務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口)。 そして姉川の戦いの後には、奪取した横山城城代任じられ浅井氏との攻防戦従事した志賀の陣)。その後小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半清水谷斜面から京極丸を攻め落すなど浅井朝倉との戦い大功をあげた。 元亀3年1572年8月頃丹羽長秀柴田勝家を敵に回したくないという思惑から木下氏羽柴氏改めている(羽柴秀吉)。

※この「織田家に仕官」の解説は、「豊臣秀吉」の解説の一部です。
「織田家に仕官」を含む「豊臣秀吉」の記事については、「豊臣秀吉」の概要を参照ください。

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