織田家と上杉家の関係とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 織田家と上杉家の関係の意味・解説 

織田家と上杉家の関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/20 06:42 UTC 版)

七尾城の戦い」の記事における「織田家と上杉家の関係」の解説

元亀3年1572年)、当時足利義昭黒幕として蠢動していた信長包囲網により、反織田勢力苦しめられていた織田信長は、西上作戦で東から圧力をかけていた甲斐武田信玄対抗するため、同じく信玄敵対していた越後の上謙信同盟締結した信長謙信伊勢越中一向一揆とも敵対しており、その上で利害一致していた。 しかし元亀4年1573年4月12日信玄西上作戦途上死去する状況一変する。この2年前に北条氏康死去しており、2人強敵死去した事で関東方面目を向ける必要性縮小し、むしろ越中加賀一揆続け一向宗こそが大敵となりつつあった。そのため、天正2年1574年)に関東出陣し北条氏政戦った後、謙信上野厩橋城中心とした関東北条高広・景広父子任せて以後北陸方面勢力拡大目論みだす。 織田家では、天正3年1575年5月信長武田勝頼長篠の戦い破り、さらに8月には柴田勝家越前侵攻命じ当時越前支配していた石山本願寺下間頼照1万2000人の宗徒処刑させた。このため石山本願寺危機感強め天正3年1575年6月謙信救援求め9月には越前一向一揆残党越中富山城河田長親救援求めてきた。これらの要請加え信長北陸方面への勢力拡大という現実的危機利害衝突から、天正4年1576年2月謙信信長との同盟破棄し5月足利義昭仲介受けて顕如和睦し同盟締結し反織田勢力一員となった

※この「織田家と上杉家の関係」の解説は、「七尾城の戦い」の解説の一部です。
「織田家と上杉家の関係」を含む「七尾城の戦い」の記事については、「七尾城の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「織田家と上杉家の関係」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田家と上杉家の関係」の関連用語

織田家と上杉家の関係のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田家と上杉家の関係のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの七尾城の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS