織田家の侵攻と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:33 UTC 版)
祐豊には山名棟豊・山名義親・山名堯熙の三子があった。棟豊は親より早く若くして亡くなったので第二子が嫡男となった。足利義昭より偏諱を受け氏煕より昭豊と諱を改め、さらに義親と改めた。山名家中から将来の活躍が期待されていたものの早世する。晩年の山名祐豊は長男、次男に先立たれ気力が衰えた[要出典]のか、織田信長の勢力が但馬へ伸張してくると、1580年(天正8年)信長の重臣・羽柴秀吉(およびその弟・羽柴秀長)の軍勢に取り囲まれることとなり降伏後しばらくして死去。自刃とも病死ともいう。 祐豊の三男・山名堯熙は、落城前に因幡へ敗走して助かった。 但馬平定に続き、羽柴氏による因幡侵攻が始まると、堯熙は八木氏・垣屋氏ら旧山名家重臣らとともに羽柴氏に従い因幡へ従軍した。羽柴家の要請により鳥取城に籠もる敵方の主要な付城である因幡国八東郡私部城を攻め取り入城し、鳥取城落城因幡平定に貢献した。 但馬は、その後も播磨と併せて羽柴氏の根本領地となり、生野銀山からの莫大な財力と但馬兵は後の羽柴氏と明智光秀(丹波)との戦を支え続けた。 堯熙は秀吉に請われ、馬廻衆(親衛隊)として仕えることとなり、1581年(天正9年)因幡国八東郡のうち2,000石の所領を認められる。 天正10年(1582年)8月、堯煕は秀吉より播磨国加古郡のうち2,000石に転封され、近習に列する。その後500石さらに摂津国能勢郡に加増された。さらにその後5,000石が加増された。秀吉没後、堯熙の子・山名堯政は豊臣秀頼に仕えた。 西因幡でも、山名豊定の子、山名豊国が自らの居城である鳥取城から重臣たちの反対を押し切り、単身秀吉に降伏した。城内に残った者は悲惨な最期を遂げた。その後、和歌等、教養面での造詣の深い豊国は豊臣家からの仕官の話を固く断り浪人となり摂津の多田氏の食客となった。 中・東因幡では、毛利氏の勢力が早くから強く、因幡守護家の山名誠通の子孫は毛利家家臣となった(すでに備後山名氏は毛利氏家臣となっていた)。
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