たまり‐づめ【×溜詰】
溜詰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 03:23 UTC 版)
溜詰(たまりづめ)は、黒書院溜之間(くろしょいん たまりのま)、通称を松溜(まつだまり)の部屋に入ったことを名前の由来とする。溜間は将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席であった。 代々の溜詰を定溜(じょうだまり)・常溜(じょうだまり)・代々溜(だいだいたまり)などといい、会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家がある。また一代に限って溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家、姫路藩酒井家、忍藩松平家、川越藩松平家などがある。さらに老中を永年勤めて退任した大名が、前官礼遇の形で一代に限って溜間の末席に詰めることもあり、これを溜詰格といった。 松溜では老中と諸役人との用談場所、諸役人の評議場として用いられ、同席する溜詰は重要事については幕閣の諮問を受けることとなっており、その定員は初期の段階で4~5名であった。また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっており、その格式は非常に高いものだった。江戸中期以降、飛溜の大名も代々詰めるようになった。また、桑名藩松平家、岡崎藩本多家、庄内藩酒井家、越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになる。その結果幕末には定員が15名近くになり、その希少性も褪せて、本来の趣旨は著しく形骸化した。ただし幕末においても三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)や諸役人の評議は、半数近くが松溜で行われており、その重要性は一定以上保たれた。 殿席家名領国石高初官経過極官親疎城主備考溜詰-常溜井伊掃部頭(井伊家) 近江彦根 35万石 従四位下侍従 家督後-権少将 正四位上権中将 譜代 城主 溜詰-常溜松平肥後守(会津松平家) 陸奥若松 28万石 従四位下侍従 家督後-権少将 正四位上権中将 御家門 城主 溜詰-常溜松平讃岐守(高松松平家) 讃岐高松 12万石 従四位下侍従 家督後-権少将 従四位上権中将 水戸連枝 城主 溜詰-飛溜酒井左衛門尉(酒井家) 出羽鶴岡 17万石 朝散大夫 家督後-四品 四品より30年-従四位下侍従 御譜代侍従之家 城主 五位の間は帝鑑間詰四品昇進後に溜詰へ遷る 溜詰-飛溜酒井雅楽頭(酒井家) 播磨姫路 15万石 朝散大夫 家督後-四品 四品より30年-従四位下侍従 御譜代侍従之家 城主 五位の間は帝鑑間詰四品昇進後に溜詰へ遷る 溜詰-飛溜松平隠岐守(久松松平家) 伊予松山 15万石 朝散大夫 家督後-四品 四品より30年-従四位下侍従 御譜代侍従之家 城主 五位の間は帝鑑間詰四品昇進後に溜詰へ遷る 溜詰-飛溜小笠原大膳大夫(小笠原家) 豊前小倉 15万石 朝散大夫 家督後-四品 四品より30年-従四位下侍従 御譜代侍従之家 城主 五位の間は帝鑑間詰四品昇進後に溜詰へ遷る 溜詰-飛溜榊原式部大輔(榊原家) 越後高田 15万石 朝散大夫 家督後-四品 四品より30年-従四位下侍従 御譜代侍従之家 城主 五位の間は帝鑑間詰四品昇進後に溜詰へ遷る 溜詰-飛溜松平越中守(久松松平家) 伊勢桑名 11万3000石 朝散大夫 家督後-四品 四品より30年-従四位下侍従 御譜代侍従之家 城主 五位の間は帝鑑間詰四品昇進後に溜詰へ遷る 溜詰-飛溜松平下総守(奥平松平家) 武蔵忍 10万石 朝散大夫 家督後-四品 四品より30年-従四位下侍従 御譜代侍従之家 城主 五位の間は帝鑑間詰四品昇進後に溜詰へ遷る 溜詰-飛溜本多中務大輔(本多家) 三河岡崎 5万石 朝散大夫 - - 譜代 城主 溜詰格
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