幕政への関与
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嘉永6年(1853年)6月8日、帰国したばかりの彦根で黒船来航の一報を受けた直弼は7月24日に江戸へ出府した。これに先立つ6月26日、老中首座の阿部正弘は、アメリカ合衆国の国書の写しを溜詰・溜詰格の大名に示し、アメリカの要求に対する対策を諮問してきた。直弼は8月10日に提出した意見書で「天主の邪教を防ぐという国益がある」と鎖国の継続を主張していたが、8月29日に提出した2通目の意見書では一転して現状での鎖国の維持は無謀とし、積極的な交易と開国を主張している。ただし、この意見書の後半には「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」と記してあり、このため直弼は元々は鎖国論者であり、彼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述)。 阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩藩主(徳川斉昭、松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭は攘夷を度々、強く唱えた。しかしこれは溜詰の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。直弼ら溜詰諸侯と阿部正弘や徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。 安政2年(1855年)3月、アメリカから日本沿海測量の要望があった。幕府内は拒絶か容認かで二分されたため、阿部正弘は斉昭へ諮問し事態の収拾を図ろうとした。斉昭は阿部に、開国・通商派の老中・松平乗全(直弼とは個人的に書簡をやり取りするほど親しかった)、松平忠固の2名の更迭を要求し8月4日に阿部はやむなく両名を老中から退けた。10月9日、阿部が溜詰格の下総佐倉藩主・堀田正睦を勝手掛老中に推挙して老中首座を譲ったことで対立はひとまず収束したが、これは乗全と忠固の罷免に対して直弼を筆頭とする溜詰諸侯が一矢報いた形といえる。 安政4年(1857年)6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、溜詰の意向を反映した堀田正睦・松平忠固の連立幕閣が形成された。 さらに直弼は第13代将軍・徳川家定の継嗣問題では血統を重視する立場から紀州藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す前水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派との対立を深めた。 安政4年(1857年)10月27日、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが江戸城にて将軍・家定に謁見し、大統領フランクリン・ピアースの親書を奉呈し、公使の江戸駐在と通商条約交渉の開始を要求した。幕府は諸大名や直参に大統領親書とハリスの口上書の内容を開示し、公使駐在と条約交渉開始の是非についての意見を求めた。是認・拒否と意見が割れる中で直弼は溜詰9家を結束させ、交渉を許容する旨の意見書を連名で提出した。 幕府は開国を決定し、12月17日より全権となった下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震がハリスとの交渉を開始。翌安政5年(1858年)正月8日、堀田正睦が勅許奏請のため上洛を命じられた。
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