幕政への関与とは? わかりやすく解説

幕政への関与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:41 UTC 版)

井伊直弼」の記事における「幕政への関与」の解説

嘉永6年1853年6月8日帰国したばかりの彦根黒船来航一報受けた直弼7月24日江戸へ出府した。これに先立つ6月26日老中首座阿部正弘は、アメリカ合衆国国書写し溜詰溜詰格の大名示しアメリカ要求対す対策諮問してきた。直弼8月10日提出した意見書で「天主邪教を防ぐという国益がある」と鎖国継続主張していたが、8月29日提出した2通目の意見書では一転して現状での鎖国維持無謀とし、積極的な交易開国主張している。ただし、この意見書後半には「海軍力整備し遠洋航海できる技術得れば時宜得て鎖国に戻すことも可能」と記してあり、このため直弼は元々は鎖国論者であり、彼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述)。 阿部正弘は、幕政従来譜代大名中心から雄藩藩主徳川斉昭松平慶永ら)との連携方式移行させ、斉昭を海防掛顧問外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭は攘夷を度々、強く唱えた。しかしこれは溜詰筆頭であり、また自ら開国であった直弼としては許しがたいものであった直弼溜詰諸侯阿部正弘徳川斉昭対立は、日米和親条約締結をめぐる江戸城西湖の間での討議頂点達した安政2年1855年3月アメリカから日本沿海測量要望があった。幕府内は拒絶容認かで二分されたため、阿部正弘は斉昭へ諮問事態の収拾図ろうとした。斉昭は阿部に、開国通商派の老中松平乗全直弼とは個人的に書簡やり取りするほど親しかった)、松平忠固の2名の更迭要求し8月4日阿部やむなく両名老中から退けた10月9日阿部溜詰格の下総佐倉藩主・堀田正睦勝手掛老中推挙して老中首座譲ったことで対立ひとまず収束したが、これは乗全と忠固の罷免に対して直弼筆頭とする溜詰諸侯一矢報いたといえる安政4年1857年6月17日阿部正弘死去すると、堀田正睦直ち松平忠固老中再任し溜詰意向反映した堀田正睦松平忠固連立幕閣形成された。 さらに直弼第13代将軍徳川家定継嗣問題では血統重視する立場から紀州藩主徳川慶福推挙し一橋慶喜推す前水藩主徳川斉昭一橋派との対立深めた安政4年1857年10月27日アメリカ総領事タウンゼント・ハリス江戸城にて将軍・家定に謁見し、大統領フランクリン・ピアース親書奉呈し、公使江戸駐在通商条約交渉の開始要求した幕府諸大名直参大統領親書ハリス口上書内容開示し公使駐在条約交渉開始是非について意見求めた是認拒否意見割れる中で直弼溜詰9家を結束させ、交渉許容する旨の意見書連名提出した幕府開国決定し12月17日より全権となった下田奉行井上清直目付岩瀬忠震ハリスとの交渉開始。翌安政5年1858年正月8日堀田正睦勅許奏請のため上洛命じられた。

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