幕政への参与と一橋家相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:45 UTC 版)
「徳川茂徳」の記事における「幕政への参与と一橋家相続」の解説
慶応元年(1865年)4月、長州再征に際して幕府より征長総督就任の内命を受ける。慶勝側近らの猛反発を受け総督は紀州藩主・徳川茂承に変更されたものの、茂徳にも上京が命ぜられ、大坂城に滞在する家茂の側にあって幕政に参与する。同年閏5月、諱を茂栄(もちはる)に改める。同年6月、幕府より旗本御後備を命じられる。同年9月の兵庫開港要求事件とそれに続く条約勅許の過程においては、一橋家当主・徳川慶喜らとともに対応に奔走し、家茂の信頼を得る(逸話も参照)。同年10月、将軍不在の江戸にあって江戸留守居を命じられ、東上する。 慶応2年(1866年)12月27日、実兄の慶勝や、実弟の松平容保(会津藩主/京都守護職)の斡旋により、徳川宗家を相続(15代将軍に就任)した慶喜に代わって一橋家当主を継承した。なお、当初は家茂の内意を受けて清水家相続の予定であったが、慶喜の意向により同家は徳川昭武(慶喜の弟)が相続することととなり、相続先の差し替えが行われた。 慶応4年(1868年)1月に勃発した戊辰戦争に際しては、兄・慶勝の内意を受けて徳川家救済の嘆願活動の一翼を担った。ただし、茂徳が江戸から江尻宿に赴き、東征大総督・有栖川宮熾仁親王に前将軍・慶喜の寛大な処分を願う嘆願書を提出できたのは3月27日であり、既にこの頃、山岡鉄舟、勝海舟らによって徳川家の降伏条件について新政府側と妥結済であった。
※この「幕政への参与と一橋家相続」の解説は、「徳川茂徳」の解説の一部です。
「幕政への参与と一橋家相続」を含む「徳川茂徳」の記事については、「徳川茂徳」の概要を参照ください。
- 幕政への参与と一橋家相続のページへのリンク