幕政、家光・家綱の信任
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「酒井忠勝 (小浜藩主)」の記事における「幕政、家光・家綱の信任」の解説
忠勝は家光から駿府18万石への加増を打診されたことがあったが、家康が保有していた土地を拝領するのは勿体無いと辞退した。その後、甲府24万石への加増も提案されたが、これも辞退した。家光が辞退した理由を問い質したところ、忠勝は、大禄を食めば驕りが生じ、本多正純のように失脚への道を歩むかもしれない。加増を受けたとして、自分の代は驕りが生じなかったとしても、自分の後の藩主たちが驕らないとも限らない、ゆえに謹んで辞退したと述べた。また、忠勝には別の思慮もあった。大老の忠勝でさえ12万石の所領しか得なかったといえば、周囲の幕臣たちも出世することに没頭せず、後世への模範となるだろうと、忠勝は考えていた。しかし晩年には、何か大事が起こった時、12万石では幕府を守り立てるのに役立てないから、もう少し加増を得ておくべきであったとも述懐している。 家光は忠勝を特に信任し、「我が右手は讃岐(酒井忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)」と述べたという。また家光が他の重臣と協議するときは寝間着姿のときもあったが、忠勝との協議のときだけは必ず着替えて引見したという。 若い頃の家光は夜な夜な江戸城をよく抜け出していた。このため辻斬りをしているのではないかと噂されたが、実は寵愛していた小姓の山城守の屋敷に行っていた。ある寒い夜、家光は山城守邸を辞去しようとしたとき、履いた草履が暖かかったので山城守の心遣いかと思った。しかし実は忠勝が家光を心配して密かに警護しており、家光が城に戻るまでの間は外で待っており、草履を懐に入れて暖めていたのである。のちにそれを知った家光は夜遊びをやめたという(『仰景録』)。 家光とその弟忠長の後継者争いの際、家光は重病に倒れたことがあった。しかし家光への病気見舞いへの客人はほとんどなく、常に忠長に対しての訪問客が多かった。これに腹を立てた忠勝は、侍女が忠長のために豪勢な食事を持って行こうとしたとき、「兄が苦しんでいるのに、弟君の忠長公が食事などできるわけがない」として下げさせてしまった。ほどなくして秀忠が忠勝のもとにやってきたので、「忠長様に対する無礼討ちを覚悟で行いました」と述べた。すると秀忠は、「これからも家光を頼むぞ。お主は徳川家良弼の第一である」と述べたという(『玉露叢』)。 家光没後の翌日、忠勝は諸大名を江戸に集めて「公方様(家光)御他界に候へども、大納言(家綱)様御家督の事に候へば、何れも安堵あるべし。若し天下を望まれとならば、此節にて候ぞ」と言い放った。すると松平光通と保科正之が進み出て諸大名に向かい、「各々讃岐守申す旨承らるべし。此砌誰か天下を望む者あるべき、若し不思議の企仕る輩も候はば、我々に仰付らるべし。ふみつぶして御代始めの祝儀に仕候はん」と申し出て諸大名を平伏させたという(忠勝が「家綱は幼少ゆえ、天下を望む者があればよい機会である」といい、光通・正之らが「天下を望む者あれば申し出てみよ。徳川の代潰しの盃といこう」と述べている)。 家綱が若い頃、庭の大石を外へ出すように忠勝に命令した。忠勝はこの石を外に出すには土居や塀を崩さないといけないので堪忍してくださいと申し上げてそのままになった。そこで知恵伊豆・松平信綱が「ならばあの石は土を掘って埋めてしまえば」と述べた。しかし忠勝は「物事思いのままになると思われては天下の政務に難儀のことがあろう。石はそのままにしておいても害はないことだ。若い上様には万事容易に事を執り行なわぬがよいと思いそのように申し上げたのだ」と言い、信綱を心服させたという。 76歳のとき、忠勝は病に倒れた。高齢だったために死期を悟り、看護は近習だけにして女性は近づけず、医師の勧める薬も拒んだ。しかし将軍・家綱や幕閣らは治療して早く治すように求めたため、やむなく薬を飲んだが高齢ですでに手遅れだった。忠勝の最期は端座したものだったという(『忠勝年譜抄説』)。
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