譜代派と田沼派の暗闘と政治空白
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「天明の打ちこわし」の記事における「譜代派と田沼派の暗闘と政治空白」の解説
天明6年9月6日(1786年9月27日)、大老井伊直幸は御三家の当主、尾張藩主徳川宗睦、紀州藩主徳川治貞、水戸藩主徳川治保に対し、「後継者の家斉はまだ若年であるため、御三家が家斉のことを補佐していくよう」との内容の将軍家治の遺言が伝えられた。翌日には御三卿のうち当主不在の田安家以外の、次期将軍家斉の実父でもある一橋家の一橋治済、清水家の清水重好に対しても同様の家治の遺言が伝えられた。なお家治から御三家、御三卿当主に対する次期将軍家斉の補佐についての依頼は上記のように尾張藩主徳川宗睦、紀州藩主徳川治貞、水戸藩主徳川治保、一橋家当主の一橋治済、清水家当主の清水重好の五名に対してなされたが、清水重好は病弱のため、実質的には御三家当主と一橋治済に対して出された形となった。将軍から後事を託された形となった御三家当主と一橋治済は幕政への関与を強めていくことになる。先述のように御三家、御三卿を始めとする譜代派は田沼意次主導の政治体制、政策に強い不満を持っており、田沼意次の更迭に続いて自派の代表を幕閣に送り込み、政治体制と政策の刷新を目指した。 天明6年10月23日(1786年11月13日)、御三家の各当主はそれぞれ田沼意次の政策を厳しく批判した上で、幕府人事の刷新および田沼を厳罰に処するよう幕閣に申し入れを行った。この時の御三家申し入れでは老中首座の松平康福の更迭と、後任として奏者番の秋元永朝を抜擢するよう主張していた。翌日、一橋治済は尾張藩主徳川宗睦、水戸藩主徳川治保に対して、現状では幕府役人の登用が器量ではなく賄賂によって左右されていると指弾した上で、享保の改革に倣い、万民が納得する政治を行うために実直で才能ある人物を老中とし、その上で優れた人材をどんどん登用していくべきとの意見を記した書簡を送った。しかしこの時はまだ一橋治済は老中とする意中の人物を明らかにしていなかった。そこで一橋治済からの書状を読んだ御三家側は意中の人物を教えるように依頼をした。 天明6年閏10月5日(1786年11月25日)、先日御三家が幕閣に対して行った秋元永朝を老中として抜擢する案を拒否する旨の回答がなされた。すると翌日には一橋治済から御三家側に、白河藩主松平定信、小浜藩主酒井忠貫、大垣藩主戸田氏教の三名が老中に相応しいが、中でも松平定信が最適任である旨の書簡が届けられた。当時、老中は寺社奉行兼任の奏者番、若年寄、側用人などの中から選ばれるのが通常で、また譜代大名の中から選ばれるのが通例であった。松平定信は幕府の役職に就いておらず、さらに親藩大名であり、老中に選ばれるとすれば異例な人事であった。御三家は協議を重ねた結果、一橋治済とともに松平定信を老中に推薦していくことになった。 将軍実父であった一橋治済は松平定信擁立に向けて活発に動き出した。御三家とともに老中に定信を推薦していく表のルートとともに、将軍世子時代から家斉の御用御側取次を勤めており、家治の死後に江戸城本丸に移った家斉とともに本丸の御用御側取次となった小笠原信喜を自派に引き入れ、将軍側近である小笠原信喜を通じての幕閣への働きかけを強めた。しかし田沼派が多く残ったままの幕閣、そして大奥の抵抗は頑強であり、一橋治済のいわば裏からの松平定信擁立工作はなかなかはかどらなかった。そのような中、天明6年12月15日(1787年2月2日)御三家共同で大老井伊直幸に対し、松平定信を老中に推薦する書状を提出するに至る。 しかし幕閣側は御三家の提案を受け入れるつもりはなかった。天明7年2月1日(1787年3月20日)には大奥老女の大崎が尾張藩邸を訪れて非公式に拒否の回答を行い、続いて天明7年2月28日(1787年4月16日)には正式に拒否の回答がなされた。拒否の表向きの理由としては、徳川家重の時代に将軍に身近な親類は幕府の重要ポストに就任できないとの内規が定められており、松平定信の実妹である種姫が家治の養女となった上で徳川治宝の正妻となっていたため、内規に違反するということであった。しかし本当のところは御三家や御三卿といった譜代派が擁立する松平定信を田沼派があくまで拒否しているというのが実態であった。 御三家や一橋治済は幕閣に松平定信の擁立以外にも政治の刷新を求めていたが、それらの要求が全く受け入れられるきざしが見られないことに不満を強めていた。しかし松平定信の擁立が難航する中、御三家と一橋治済の関係にすきま風が吹くようになった。これは一橋治済が徳川家斉の実父であるため、将軍実父の影響力を駆使して幕政に容喙することを警戒する空気が広まっており、御三家としてもそのような懸念を共有していたことが原因であった。松平定信擁立や幕政刷新を目指して御用御側取次などを通じた工作を進める一橋治済に対し、御三家側は不快感を見せるようになった。 田沼意次の老中辞任後の幕政刷新を求める譜代派と田沼派の対立は、田沼派の頑強な抵抗、そして譜代派内の足並みの乱れもあって膠着状態が続いた。田沼辞任後、幕政を主導する存在が欠如した上に厳しい内部対立を抱えた幕府は、一種の政治空白状態に陥った。政治空白状態の中では幕府として思い切った政策を実行することは不可能であり、政治的な課題には当面の場当たり的な対応に終始する状態が続いた。例えば譜代派が求める幕府役人の綱紀粛正を図る法令を出したかと思うと、田沼派の牙城であった将軍側近の幕府役人の権威を重んじるように指示する法令が出されるといった事態が発生していた。このような幕府内の譜代派と田沼派との抗争による政治空白は、幕府内部の努力では解決の糸口が見出せないまま、天明7年5月から6月にかけて激しい打ちこわしが日本各地で発生することになった。
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