譜代派と田沼派の暗闘と政治空白とは? わかりやすく解説

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譜代派と田沼派の暗闘と政治空白

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:30 UTC 版)

天明の打ちこわし」の記事における「譜代派と田沼派の暗闘と政治空白」の解説

天明6年9月6日1786年9月27日)、大老井伊直幸御三家当主尾張藩主徳川宗睦紀州藩主徳川治貞水戸藩主徳川治保対し、「後継者家斉はまだ若年であるため、御三家家斉のことを補佐していくよう」との内容将軍家治の遺言伝えられた。翌日には御三卿のうち当主不在田安家以外の次期将軍家斉の実父でもある一橋家の一橋治済清水家清水重好に対して同様の家治遺言伝えられた。なお家治から御三家御三卿当主対す次期将軍家斉の補佐についての依頼上記のように尾張藩主徳川宗睦紀州藩主徳川治貞水戸藩主徳川治保一橋当主一橋治済清水家当主清水重好の五名に対してなされたが、清水重好は病弱のため、実質的に御三家当主一橋治済に対して出された形となった将軍から後事託された形となった御三家当主一橋治済幕政への関与強めていくことになる。先述のように御三家御三卿始めとする譜代派は田沼意次主導政治体制政策に強い不満を持っており、田沼意次更迭続いて自派の代表を幕閣送り込み政治体制政策刷新目指した。 天明6年10月23日1786年11月13日)、御三家の各当主それぞれ田沼意次政策厳しく批判した上で幕府人事刷新および田沼厳罰処するよう幕閣申し入れ行った。この時の御三家申し入れでは老中首座松平康福更迭と、後任として奏者番秋元永朝抜擢するよう主張していた。翌日一橋治済尾張藩主徳川宗睦水戸藩主徳川治保に対して現状では幕府役人登用器量ではなく賄賂によって左右されていると指弾した上で享保の改革倣い万民納得する政治を行うために実直才能ある人物老中とし、その上で優れた人材をどんどん登用していくべきとの意見記した書簡送った。しかしこの時はまだ一橋治済老中とする意中の人物を明らかにしていなかった。そこで一橋治済からの書状読んだ御三家側は意中の人物を教えるように依頼をした。 天明6年10月5日1786年11月25日)、先日御三家幕閣に対して行った秋元永朝老中として抜擢する案を拒否する旨の回答なされた。すると翌日には一橋治済から御三家側に、白河藩松平定信小浜藩酒井忠貫大垣藩戸田氏教三名老中相応しいが、中でも松平定信最適任である旨の書簡届けられた。当時老中寺社奉行兼任奏者番若年寄側用人などの中から選ばれるのが通常で、また譜代大名の中から選ばれるのが通例であった松平定信幕府役職に就いておらず、さらに親藩大名であり、老中選ばれるとすれば異例な人事であった御三家協議重ねた結果一橋治済とともに松平定信老中推薦していくことになった将軍実父であった一橋治済松平定信擁立向けて活発に動き出した御三家とともに老中定信推薦していく表のルートとともに将軍世子時代から家斉御用御側取次勤めており、家治死後江戸城本丸移った家斉とともに本丸御用御側取次となった小笠原信喜自派引き入れ将軍側近である小笠原信喜通じて幕閣への働きかけ強めた。しかし田沼派が多く残ったままの幕閣、そして大奥抵抗頑強であり、一橋治済のいわば裏からの松平定信擁立工作はなかなかはかどらなかった。そのような中、天明6年12月15日1787年2月2日御三家共同大老井伊直幸対し松平定信老中推薦する書状提出するに至る。 しかし幕閣側は御三家提案受け入れるつもりはなかった。天明7年2月1日1787年3月20日)には大奥老女大崎尾張藩邸を訪れて非公式に拒否回答行い続いて天明7年2月28日1787年4月16日)には正式に拒否回答なされた拒否表向き理由としては、徳川家重時代将軍身近な親類幕府の重要ポスト就任できないとの内規定められており、松平定信実妹ある種姫が家治養女となった上で徳川治宝正妻となっていたため、内規違反するということであった。しかし本当のところは御三家御三卿といった譜代派が擁立する松平定信田沼派があくまで拒否しているというのが実態であった御三家や一治済は幕閣松平定信擁立以外にも政治刷新求めていたが、それらの要求が全く受け入れられるきざしが見られないことに不満を強めていた。しかし松平定信擁立難航する中、御三家一橋治済の関係にすきま風が吹くようになった。これは一橋治済徳川家斉実父であるため、将軍実父影響力駆使して幕政容喙することを警戒する空気広まっており、御三家としてもそのような懸念共有していたことが原因であった松平定信擁立幕政刷新目指し御用御側取次などを通じた工作進め一橋治済対し御三家側は不快感見せようになった田沼意次老中辞任後幕政刷新求め譜代派と田沼派の対立は、田沼派の頑強な抵抗、そして譜代内の足並み乱れもあって膠着状態続いた田沼辞任後幕政主導する存在欠如した上に厳し内部対立抱えた幕府は、一種政治空白状態に陥った政治空白状態の中では幕府として思い切った政策実行することは不可能であり、政治的な課題には当面場当たり的な対応に終始する状態が続いた例え譜代派が求め幕府役人綱紀粛正を図る法令出したかと思うと、田沼派の牙城であった将軍側近幕府役人権威重んじるように指示する法令出されるといった事態発生していた。このような幕府内の譜代派と田沼派との抗争による政治空白は、幕府内部努力では解決糸口見出せないまま、天明7年5月から6月にかけて激し打ちこわし日本各地発生することになった

※この「譜代派と田沼派の暗闘と政治空白」の解説は、「天明の打ちこわし」の解説の一部です。
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