将軍問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 15:06 UTC 版)
『保暦間記』によると、頼綱は泰盛の子宗景が源頼朝の落胤であると称して源氏に改姓し、謀反を起こして将軍になろうとしている、と貞時に讒言したという。泰盛は源氏将軍に伝えられる「髭切太刀」を京都のある霊社から探し出して法華堂の御逗子に納めていた。髭切りの太刀は霜月騒動で行方不明になったのち、12月5日に探し出され、貞時によって「赤字の錦袋」(平氏を称する北条氏は赤旗)に包まれて再び法華堂に奉納された。 本来将軍と御家人の主従関係で成り立っていた幕府内部において、総領制が行き詰まる中で零細化した御家人が得宗被官の御内人として取り込まれ、得宗と御内人の主従関係を築くようになっていた。泰盛の改革で救済対象であった零細御家人は、御内人として得宗方の討手に回ったのである。一方、幕府創設以来の御家人達にとって、一段身分が低く、あくまでも北条家の家臣に過ぎない内管領・御内人が権勢を振るう事への反発は強く、それら外様御家人層の多くが泰盛方に加わっていた。将軍問題は得宗が幕府の頂点にありながらも、その出自の低さ故に自ら将軍になる事の出来ない北条氏が最後まで乗り越える事の出来ない壁となっていた。
※この「将軍問題」の解説は、「霜月騒動」の解説の一部です。
「将軍問題」を含む「霜月騒動」の記事については、「霜月騒動」の概要を参照ください。
- 将軍問題のページへのリンク