岩国領主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 08:46 UTC 版)
防長への減封を受諾した毛利氏は、長門国の一隅萩に本拠を置いた(長州藩)。藩内を分割して長府、徳山の分家(後に清末の孫家が加わる)と岩国吉川領を置き、広家には本拠地萩からもっとも遠く東の守り、本家及び直系一門の盾の位置となる岩国3万石の所領が与えられて岩国領の初代領主となった。(毛利宗家の高直しのあとで、岩国領も6万石に高直しされる) 長府・徳山・清末の三家は支藩として正式に諸侯に列せられたが、岩国領は藩とされず、吉川家は長州藩からは家臣として扱われた。一方、家康からは岩国築城を許され、幕府からは大名としての扱いを受け、江戸に藩邸を構え参勤交代も行われるという複雑な立場となった。この微妙な立場は岩国城破却問題や2代目から11代目までの岩国領主の肖像画が描かれないなど、吉川家に様々な苦渋をなめさせることになる。 ちなみに、支藩筆頭の名誉を担った西の長府藩主は関ヶ原で毛利勢の総大将として布陣しながら広家の内通に戦闘参加を阻まれた毛利秀元である。秀元は幼少の藩主・毛利秀就の輔佐のため長州藩の執政となり、筆頭重臣の地位にあった福原広俊と権力を争う事になり、広俊は広家に助けを求めた。広家は関ヶ原の一件を理由に表向きには動かなかったものの、反秀元派重臣の後ろ盾として動く事になる。慶長10年(1605年)に熊谷元直粛清事件(五郎太石事件)が発生するが、広俊はこれを輝元と迅速に鎮圧すると共に、秀元・広家の両者に対して和解を強硬に申し入れて両者はこれに応じている。だが、その後も秀元と広俊(及び背後の広家)との確執は続く事になる。この間、広家は慶長6年(1601年)、同8年(1603年)、同9年(1604年)、同11年(1606年)に徳川家康・秀忠父子と謁見している。 ところが、大坂冬の陣の際に毛利秀元が輝元・秀就らと極秘に内藤元盛(佐野道可)を豊臣方に派遣し、この事実を広家や他の重臣には一切秘密にしていた事を知った広家は激怒して慶長19年(1614年)12月22日に隠居して嫡男の広正に家督を譲り、福原広俊もこの問題の処理後の元和2年(1616年)に藩の政務から退いた。以後、藩政は秀元と益田元祥・清水景治らによって運営される事となる。 既に豊臣政権において独立した大名として認められていた秀元は長府家の家格上昇を図りながら藩政運営を行うことになり、対立関係にあった吉川家の勢力削減を目論んだ。元和の一国一城令を理由とした岩国城を破却などもこうした秀元の政策に基づくところが大きい。こうした秀元の方針に対して広家は表立っては沈黙していたものの、福原広俊らと共に秀元への対抗姿勢を示している。秀元は徳山藩主であった秀就の弟・毛利就隆を取り込んで秀就に反抗的な態度を取り続け、それに対抗すべく秀就は広家を味方にしていた。 もっとも、元就時代より吉川家は庶流の筆頭として家臣団を統率するのが役割であった。一方、一度は宗家の後継となった秀元の長府毛利家がその経緯を盾に、他の分家との差別化と家格の上昇を図って宗家に準じた地位を確保しようとした側面がある。実際、輝元や広家の死後の寛永8年(1631年)に秀元はその専横を非難されて長州藩執政の地位を失って失脚し、後任の執政に就いたのは広家の子・広正であり、広正の正室に輝元の娘・竹姫を娶ったのは移封後のことである。 広家は家督を広正に譲って隠居した後も岩国領の実権は握り続け、元和3年(1617年)には188条にも及ぶ領内の統治法を制定するなど岩国の開発に力を注ぎ、実高10万石(最盛期には17万石とも)とも言われる岩国領、そして現在の岩国市の基礎を築いた。寛永2年(1625年)9月21日に死去。享年65。 なお、広家の次男で吉見広頼の養子となっていた吉見政春が後に毛利姓を名乗ることを許され、毛利就頼と改名して長州藩一門家老の大野毛利家を創設している。
※この「岩国領主」の解説は、「吉川広家」の解説の一部です。
「岩国領主」を含む「吉川広家」の記事については、「吉川広家」の概要を参照ください。
- 岩国領主のページへのリンク