役職としての「武家執奏」とは? わかりやすく解説

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役職としての「武家執奏」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/16 13:01 UTC 版)

武家執奏」の記事における「役職としての「武家執奏」」の解説

もう1つの「武家執奏の意味として、北朝勅裁である治天の君院宣親政時における天皇勅旨室町幕府伝達する役目を担う公家のことを指した。だが、それは前述のように反対経路によって幕府側の要望治天の君もしくは天皇へと伝達する役目を果たすことにもなった。 鎌倉時代治天の君天皇勅裁関東申次経由して鎌倉幕府あるいはその出先機関である六波羅探題伝達された。室町幕府創設には鎌倉幕府武家政権再興意図含まれていたため、公武関係もそれに近い形での復活意図された(ただし、室町幕府鎌倉幕府違って北朝朝廷)と同一都市京都)に置かれていたため、六波羅探題のような出先機関を必要とはしなかったが)。 だが、最後関東申次であった西園寺公宗建武政権によって処刑されて、後醍醐天皇家門安堵受けて南朝派の弟公重が西園寺家継いでおり、一方公宗処刑時に懐妊中だった正室日野名子生んだ嫡男(後の西園寺実俊)は余りにも幼すぎた。更に公重も北朝側に従ったために公重を排除するわけにも行かなかった。このため治天の君光厳上皇)と室町幕府は実俊を後継者として庇護することを条件として後醍醐天皇家門安堵追認する一方で、実俊が西園寺家継承するまで関東申次継承する役目誰が引き受けるかが問題となった。 そこで、登場したのが光厳天皇時代太政大臣であった今出川兼季である(ただし、後醍醐天皇元弘の変後に京都帰還した際にこの人事は無効とされ、その後北朝も特にこれを取消す措置を取らなかったため名義上は「前右大臣であった)。兼季は関東申次務めた西園寺実兼の子で公宗の大叔父にあたる人物であった北朝成立翌年建武4年1337年)より、光厳上皇院宣とともに兼季の消息御教書足利尊氏執事であった高師直宛て出されており、尊氏はこれを受けて守護諸国武士命令下している。その後暦応元年1338年になって兼季が出家し翌年正月には病没したことから、その役目息子今出川実尹継承した。実尹は父の病没当時24歳若さであったが、前述通り西園寺実俊成長までの中継ぎ考えられていたため問題とはされなかったとみられている。ところが、今出川兼季病没3年後康永元年1342年)には今出川実尹急逝してしまった。もっとも今出川家取次役をしていた時期には十分な活動が行われていなかった可能性がある。『続史愚抄によれば建武5年8月28日朝廷行われた暦応改元決定幕府側には伝えられず、足利尊氏幕府首脳9月4日になって初め知ったという。 そこで、実尹の後任となったのは勧修寺経顕であった。経顕は光厳上皇側近中最も重んじられ1人であったことが光厳天皇曾孫貞成親王の『椿葉記』に記されている。また、西園寺家一族ではないものの、初代関東申次であった吉田経房末裔であった以後、経顕が尊氏及びその代理と言える高師直足利直義足利義詮らと間で朝幕交渉を行うことになる。経顕の活動10年余りであるがこの時期に朝幕交渉具体的な手続などが整備され、「武家執奏」の職制と名称が定まり文書にも登場するうになる(『東寺百合文書』さ所収応安3年1370年2月東寺陳述状には観応2年東寺側と「勧修寺一品于時武家執奏勧修寺経顕応安3年当時従一位)」の間のやりとり引用されている)。 文和2年10月19日1353年11月15日)、19歳西園寺実俊勧修寺経顕に代わって武家執奏任じられた。この直後に実俊が権大納言に任ぜられて武家執奏相応し地位得たこと、前々年から前年にかけて発生した正平一統の際に西園寺公重南朝方に通じたとして失脚して吉野逃れ、実俊が西園寺家継承者であることに異論を挟む者がいなくなったことが大きかったまた、勧修寺経顕後光厳天皇擁立功労者であった反面、彼を登用し光厳法皇南朝軍に連行されたことによって後ろ盾喪失したことによる政治力低下があったとする見方もある。以後、実俊は30年以上にわたって武家執奏務めることとなった上記室町幕府将軍による武家執奏多く取次したのも実俊であった治天の君天皇勅裁治天の君場合院宣天皇親政時には綸旨の形で出されそれぞれの伝奏通じて武家執奏伝えられる武家執奏施行状発給し将軍伝達する公家施行)。そして将軍執事管領)や引付頭人内談頭人)に命じて勅裁内容伝えるべき対象である武士に対して施行状相当する奉書発給した武家執行)。ただし、武家執奏自身地位室町幕府内の権力関係によって手続変化する場合があり、今出川兼季西園寺実俊(ただし、貞治3年以後)といった現職前職大臣勅裁伝え場合には当時公家社会慣例に従って院宣綸旨はその家の家司宛に出されたのに対して武家執奏大納言以下の場合には本人宛に出された。また、今出川親子時代には公家施行消息御教書体裁家司によって発給されていたのに対し勧修寺経顕時代には体裁消息御教書であっても本人直状によって発給され西園寺実俊時代には幕府影響力強化沿う形で本人直状である正式な施行状発給されている。更に公家執行宛先足利尊氏将軍在任中は高師直足利直義足利義詮実務最高責任者宛に出されていたが、義詮将軍就任後は父・尊氏生存中から進めてきた将軍親裁強化方針合わせて将軍自身宛先変更されるようになった。 だが、永徳2年1382年将軍である足利義満左大臣加えて院司の長である院執事就任して伝奏以下を指揮することになったために、治天の君伝奏武家執奏室町幕府将軍図式崩壊してしまう。このため永徳2年から遠くない時期武家執奏はその役目終えて実質廃止となった考えられている。その後治天の君近侍する伝奏直接自分の上司でもある将軍足利義満伝達し義満もしくは奉行などの幕府役人意向伝奏経由して治天の君天皇取り次がれた。そして、義満朝廷政策批判的であったとされる息子足利義持もまた後小松上皇の院執事就任している。そのため、伝奏将軍に対して直接天皇上皇意向伝達するのが慣例となり、後にその役目担った伝奏を特に「武家伝奏」と称するようになった

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