役職としての「高家職」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 12:06 UTC 版)
「高家 (江戸時代)」の記事における「役職としての「高家職」」の解説
幕府の組織制度において高家職は、老中の管轄支配下とされた。 主な職務として伊勢神宮、日光東照宮、久能山東照宮、寛永寺、鳳来山東照宮への将軍の代参という将軍の代理としての職務、および幕府から京の朝廷への使者の職務、逆に朝廷からの勅使・院使の接待や、接待に当たる勅院使(饗応役の大名)への儀典指導など、朝幕間の諸礼に当った。 高家職に就くことができるのは、「『高家』の家格を持つ旗本(高家旗本)」のみである。高家職に就いている高家旗本を奥高家という。高家職の人員は年代によって異なっており、延宝年間には9人、安政5年(1858年)には17人が就いている。さらに、奥高家の中から有職故実や礼儀作法に精通している3名を選んで高家肝煎(こうけきもいり)とした(「三高」と呼ばれた。一部に「高家筆頭」と書く書もあるが、当時「高家筆頭」という職や呼び方があったかは疑問である)。天和3年(1683年)に大沢基恒、畠山義里、吉良義央の3名が高家肝煎とされたのがはじまりであるが、高家肝煎となる家は固定されていたわけではない。職務内容的にも、各儀礼の知識と経験値が高いものが選ばれることとなり、つまり若くして抜擢されるようなことはほとんどない。三人のうち一人ずつ宿直し、詰所は寺社奉行・御奏者番の隣で町奉行の上である。席は譜代大名の詰所の雁の間だった。肝煎料は800俵だが、幕末には役料として1500両が月割で支給されるようになった。公式の場における礼儀作法を諸大名に伝授することも職分であり、その際、相応の謝礼を受けることが黙認されていた。諸侯から贈られる金額は相当の額に及び、そのため生活は楽であった。 後に高家見習も設けられ、主に高家職の嫡子から選ばれた。一時的であるが、御側高家(側高家、1709-1716)、および将軍世子に近侍した西丸高家(西城高家、西の丸高家。1650-1651年、家綱に近侍)が設けられているが、その職位は奥高家や表高家とは著しく異なったようである。 一方無役の高家旗本は表高家といい、年頭、歳暮、五節句以外では登城しない。 なお、高家の当主は高家職以外の幕府の役職に就くことはできないのが原則である。高家以外の職に就く場合は、一度高家旗本の格式を離れ、一般の旗本に列してからとなっていた。
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