尾張佐久間氏とは? わかりやすく解説

尾張佐久間氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 16:36 UTC 版)

佐久間氏」の記事における「尾張佐久間氏」の解説

盛通(与六)は家十世(あるいは十三代)の孫と伝わっており、その子孫御器所山崎城ほか4家(久六盛重・盛次系河内守系、奥山氏系、信晴・信盛系)に分かれる戦国時代、盛通の孫に当たる盛重(大学允、盛経の子)と信盛(信晴の子)は織田信長重臣として仕えたが、盛重は桶狭間の戦い戦死、信盛は石山合戦の後の粛清により天正8年1580年)に追放された。 盛通の末子盛重(久六)の子・盛次の系統は、盛次の長男柴田勝家与力として北陸戦った金沢城主・盛政がよく知られているが、盛政は賤ヶ岳の戦い敗戦により捕らえられ刑死する。この敗戦により佐久間氏一族勢力没落するその後、盛政の娘・虎姫中川秀成(盛政が賤ヶ岳討ち取った中川清秀の子。後に豊後岡藩主)に嫁ぎ、秀成は四男の内記を盛次の四男・勝之の養子として佐久間家再興させようとしたが叶わなかった。後に中川資重と勝之の娘との子・平兵衛新し佐久間家を興させた。佐久間家岡藩客分扱いとして存続した。 盛政の弟は、盛次の次男安政信濃飯山藩3万石藩祖に、勝之が信濃長沼藩1万8,000石の藩祖それぞれなったが、飯山藩第3代将軍・徳川家光時代に無嗣断絶となり、長沼藩も第5代将軍徳川綱吉の時代不敬断絶となった。なお、後に赦されて勝種の子・盛遠が200高で幕臣となったまた、次の三男・勝政は柴田勝家養子となり、江戸時代通じて旗本として存続している。 信盛の子孫は、信盛の子・信栄(正勝)が赦されて帰参し、その後江戸時代通じて幕臣として存続した。幕末慶応4年1868年1月鳥羽・伏見の戦いにおいて洋式幕府歩兵隊連隊長として戦死した佐久間信久佐久間信盛の子孫という。その他、初代飯山藩主の佐久間安政の子系統信濃松代藩士・佐久間象山がおり幕末から明治前期偉人達(勝海舟吉田松陰高杉晋作坂本龍馬、他多数)に大きな影響残した。[要出典]

※この「尾張佐久間氏」の解説は、「佐久間氏」の解説の一部です。
「尾張佐久間氏」を含む「佐久間氏」の記事については、「佐久間氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「尾張佐久間氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「尾張佐久間氏」の関連用語

尾張佐久間氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



尾張佐久間氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの佐久間氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS