尾張入国後
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越前を奪われて本拠地を尾張に遷した義寛だが、以後も越前回復には並々ならぬ執念を燃やすこととなる。また、出家していたとは言え、隠居していた義敏やその弟の義孝が京都に滞在して幕府や朝廷との関係を維持していたことで、義寛は尾張の領国経営と越前回復の準備に専念できる状況が生み出されていた。 長享元年(1487年)、将軍義尚による近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると、同年9月30日に義寛は尾張守護代である大和守敏定、伊勢守寛広ら両織田一族以下8000の大軍を率いて幕府軍に参陣し、副将軍としてその主力となった。この際、越前を実効支配する朝倉貞景(氏景の子)が幕府軍へ参陣すると、かつての家臣と同陣することに大きな屈辱を感じた義寛は、義尚に対して朝倉氏の越前押領と自身の越前回復を訴えた(長享の訴訟)。この争論では斯波氏・朝倉氏ともに越前支配の正統性を主張して互いに譲らず、幕府としても討伐目標を前にしながらの内輪揉めは望まなかったため、義寛に色良い答えが出ないまま、この争論は立ち消えとなった。 延徳3年(1491年)、義尚の後を継いだ10代将軍足利義材(義稙)によって再び六角征伐が行われると、義寛はまたも大軍を率いて参陣。この時の斯波軍の装いは「見物衆、大道を打ち塞ぐと云々。皆、小具足がり綺麗厳浄の体、比類無き」・「武衛衆の壮麗、山名衆に勝る。同日に語るべからず」と賞賛されるほど華麗な軍勢であったという。また、幕府軍の洛中出陣においては武家衆の先陣を勤めるなど、前回同様、義寛率いる尾張勢は幕府軍の主力を形成し、播磨の赤松勢と共に六角一族の山内政綱を討ち取る戦功を挙げた。この他、翌明応元年(1492年)には近江の各所で六角勢を打ち破るなどして軍功を重ね、同年5月4日には将軍義材に代わり幕府軍の総大将として琵琶湖を渡湖、近江守山に陣を進めて勢威を上げた。これらの参陣中、義寛は義材に重ねて越前回復を訴え(延徳の訴訟)ており、今回は実際に「朝倉退治」の御教書が義寛に下され、義材自身の越前進発が噂になるなど、義寛にとって有利な方向へ事は進んだが、結局幕府は朝倉氏の精鋭1万といわれる軍事力に二の足を踏み越前回復はならなかった。 2度の六角征伐において幕府軍の総大将に任じられた義寛は、義材との関係が微妙になっていた細川政元に代わる管領候補として畠山政長とともに挙げられるようになっていた。通説では応仁の乱と朝倉氏の越前国奪取によって斯波氏は衰退したと言われているが、義敏が出家直前に斯波氏でも異例の従三位に叙せられ、義寛が尾張の兵を率いて幕府軍の総大将を務めたことから、むしろこの時期の斯波氏は政治的な勢力を回復させていた時期とみる説もある。また、この動きは足利将軍家が細川氏(京兆家)を抑えるために斯波氏を重用したことも背景にあったとされている。また、前述のように義寛は一色義直の娘を迎えているが、丹後の守護を務める一色氏は応仁の乱では西軍についていたが、戦後も東軍であった若狭武田氏とは対立関係が続いていた。応仁の乱では敵対関係にあった義敏父子と一色義直であったが、婚姻関係を結ぶことで中央政治を有利に運び、若狭武田氏・朝倉氏・細川氏らとの対立勢力との争いを優位にする意図があったと考えられる。 明応2年(1493年)の義材の河内の畠山基家攻めにも義寛は従軍するが、従軍中に管領細川政元によるクーデター(明応の政変)に遭い、義材との親密さが災いして幕府内で孤立することとなる。こうして越前回復の望みを完全に断たれた義寛は、やむなく応仁の乱以来の戦友である赤松政則に伴われ新将軍足利義高(義澄)に出仕し、義材廃立後の幕府の最高権力者となった細川政元の前に屈服した。 谷口雄太は斯波氏にとって応仁の乱とそれに続く朝倉氏の越前支配よりも、そこから立ち直りつつあった矢先に発生した明応の政変とそれに続く今川氏の遠江侵攻による打撃の方が大きく、斯波氏の衰退の直接的原因は応仁の乱ではなく明応の政変にあったと解説している。
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