豊臣政権の確立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 04:42 UTC 版)
詳細は「豊臣政権」を参照 清須会議後、信雄と信孝の間で対立が起きた。天正10年(1582年)11月、信雄派の秀吉は大徳寺で羽柴秀勝を喪主として織田信長の葬儀を行った。秀吉は柴田勝家が領国の越前に帰国し、雪で動けなくなった時期を狙い、安土城修復後も信孝が三法師を岐阜に止めた事を名分に信孝を攻撃。三法師成人までの間の織田家家督代行を織田信雄に委ねることを認めさせた。さらに賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒し、秀吉の権力が強化されていった。家督代行となった織田信雄が安土城に入り城下に法令を施行し、前田玄以を京都所司代に任用するなど織田政権を動かし天下人と認識されるまでになった。 この織田家家督代行の織田信雄と羽柴秀吉が対立。徳川家康と組んだ信雄は小牧・長久手の戦いで勝利するが、戦闘を継続できずに和睦し、織田政権は実質的に秀吉の傀儡政権となった。その後、秀吉が関白になり織田政権を吸収して豊臣政権を樹立した。豊臣政権では織田信雄、織田秀信が領土・官位等で優遇を受けたが一大名に転落した。
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