豊臣政権下の活動とは? わかりやすく解説

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豊臣政権下の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:52 UTC 版)

一柳直末」の記事における「豊臣政権下の活動」の解説

天正12年1584年)、小牧・長久手の戦いの際には竹ヶ鼻城伊藤牛之助とともに攻め竹ヶ鼻城の戦い)、これを与えられたという。天正13年1585年)の紀州征伐の際には千石堀城攻め加わったその後四国攻め四国平定)、佐々成政攻めにも従った天正13年1585年)閏8月秀吉の甥・豊臣秀次近江国20万石宿老分合わせて43万石)で移され以後八幡山城築城する。直末は、田中吉政中村一氏堀尾吉晴山内一豊とともに次に宿老(「年寄」)として付けられた。この時直末は美濃国大垣城2万5000石、ほかに八幡山城の秀次を「折々見廻申候様」申し付けられて八幡付近1000石を領したという。小和田哲男は「宿老とはいうものの時折八幡山出仕する相談役役割任されたものと推測する大垣城主(美濃蔵入地代官兼ねる)への移転については、前任加藤光泰秀吉勘気を蒙ったのに替わるもので、光泰罪状記した末安(直末)宛の書状は、部将たちに示した公開訓戒状であるとともに、「唐国征服意思示したものとしても知られる同年11月29日天正地震では大垣城倒壊炎上し、直末は辛うじて難を逃れたが、浅井攻め得た感状失ったという。 天正13年1585年)には従五位下伊豆守叙せられた。天正14年1586年)には、一柳直末開基南化玄興一柳家出身で、直末の叔父にあたるという)を初代住持として、妙心寺塔頭大通院開いた天文17年1589年3月、賀留美軽海西城現在の岐阜県本巣市軽海)で5万石を知行。なお『寛政重修諸家譜によれば天正13年1585年)に美濃国で6万石領し、「浮見城」に住したとある。

※この「豊臣政権下の活動」の解説は、「一柳直末」の解説の一部です。
「豊臣政権下の活動」を含む「一柳直末」の記事については、「一柳直末」の概要を参照ください。

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