豊臣政権下の活動
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天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの際には竹ヶ鼻城を伊藤牛之助とともに攻め(竹ヶ鼻城の戦い)、これを与えられたという。天正13年(1585年)の紀州征伐の際には千石堀城攻めに加わった。その後、四国攻め(四国平定)、佐々成政攻めにも従った。 天正13年(1585年)閏8月、秀吉の甥・豊臣秀次は近江国に20万石(宿老分合わせて43万石)で移され、以後八幡山城を築城する。直末は、田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに秀次に宿老(「年寄」)として付けられた。この時直末は美濃国大垣城に2万5000石、ほかに八幡山城の秀次を「折々見廻申候様」申し付けられて八幡付近で1000石を領したという。小和田哲男は「宿老」とはいうものの時折八幡山に出仕する相談役の役割を任されたものと推測する。 大垣城主(美濃の蔵入地代官を兼ねる)への移転については、前任の加藤光泰が秀吉の勘気を蒙ったのに替わるもので、光泰の罪状を記した末安(直末)宛の書状は、部将たちに示した公開訓戒状であるとともに、「唐国」征服の意思を示したものとしても知られる。同年11月29日の天正地震では大垣城が倒壊・炎上し、直末は辛うじて難を逃れたが、浅井攻めで得た感状を失ったという。 天正13年(1585年)には従五位下伊豆守に叙せられた。天正14年(1586年)には、一柳直末を開基、南化玄興(一柳家出身で、直末の叔父にあたるという)を初代住持として、妙心寺に塔頭の大通院を開いた。 天文17年(1589年)3月、賀留美(軽海西城。現在の岐阜県本巣市軽海)で5万石を知行。なお『寛政重修諸家譜』によれば、天正13年(1585年)に美濃国で6万石を領し、「浮見城」に住したとある。
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