豊臣政権時代
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天正13年(1585年)12月、千本氏の当主である千本資俊・資政父子が大関高増の謀略で殺害され、茂木義政が名跡を継ぎ千本義隆と名乗った。これが義定の父である。 天正18年(1590年)、小田原征伐には豊臣方に属し、父と共に参戦し下野国芳賀郡内2,070石を賜る。また、文禄の役でも父と共に名護屋城に在陣したが渡海はしなかった。
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豊臣政権時代
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天正11年(1583年)には山城守を称する。天正12年(1584年)末から狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の上杉家臣たちは景勝を「殿様」「上様」、兼続を「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものであった。天正14年6月22日(1586年8月7日)、主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、兼続も従五位下に叙せられる。 新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だったために豪雨により上杉勢が敗北する。兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐した。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化した。天正15年10月23日、兼続は藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、10月28日には新発田城も落城し、乱は収束した。 天正16年8月17日(1588年10月7日)には景勝に従って上京し須田満親・色部真長らと共に豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜る。このことから、桐野作人は「兼続は叙爵して豊臣姓を名乗っており陪臣ではない」としているが、宮本義己は下村效や矢部健太郎の研究を踏まえた上で、「兼続が諸大夫を従えられる清華の身分になった景勝に準じる扱いを受けただけで、秀吉の直臣になったわけではないし、「豊臣」の本姓も儀礼上の擬制的なもので、兼続がこれを名乗れたわけではなく、むろん名乗った事実も見当たらない」と反論している。 天正17年(1589年)の佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられた。天正18年(1590年)の小田原征伐でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役においては景勝と共に参陣して熊川倭城を築城。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。 安定した豊臣政権の中で、兼続は戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走する。兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励した。越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。さらには産業を育成し、商業の発展に努めた。その元となったのが青苧(あおそ)と呼ばれる衣料用繊維で本座といい、魚沼郡に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重なものであった。蒲生氏の支配時期においても青苧は特産品であったが。この青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げた。京都へ輸出することを献策したのは、西村久左衛門乗安であった。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらした。 文禄4年(1595年)1月、景勝が秀吉より越後・佐渡の金・銀山支配を任せられると、兼続は立石喜兵衛、志駄義秀を金山奉行に命じた。 慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられている。兼続は国替えの際、前半歳の租税を徴したので、後任の堀家は返還を求めたが、これに応じなかった(『千金良文書』)。またこの国替えで、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。兼続は、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備した。朝日連峰の尾根筋を縦走する険しい山道で、関ヶ原の合戦後はほぼ廃道となった。
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豊臣政権時代
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天正15年(1587年)、頼房は宮内大輔を名乗るようになった。新たに肥後領主となった佐々成政の統治に国人衆が反発して肥後国人一揆が起こると、秀吉は島津義弘と伊集院忠棟に一揆鎮圧の助成するよう命じたが、成政はこれを疑い、乱に乗じて自分を攻め殺そうするものと勘違いして、頼房に檄を飛ばし、義弘らの入国を阻むよう要請した。頼房はこれに従って佐敷で防戦。伊集院忠棟がすぐにこれを注進したため、秀吉は激怒した。深水宗方が急ぎ大坂に赴いて、秀吉に陳謝して行き違いを説明し、島津氏と和解すべく働いたので、肥後国人衆が尽く罰せられる中にあっても、相良家は何とか処罰を免れた。しかし功臣・深水宗方も天正18年(1590年)に亡くなった。 「肥後国人一揆」も参照 天正20年(1592年)2月1日、頼房は青井阿蘇神社に参詣して目前に迫った外征祈願をし、そこで深水頼蔵と犬童頼兄(軍七)に相良姓を与え、頼蔵を自らの軍師に頼兄をその補佐役と定めた。両名は不仲であり、陣中で不和を起さぬように誓書を交わさせた。しかし名護屋城在陣中に両名は諍いを起こし、深水頼蔵は国許に帰ってしまった。竹下監物(深水一族)がこれを諭したので、結局、頼蔵は出征することになった。 文禄元年(1592年)、文禄の役が始まると、頼房は深水頼蔵や犬童頼兄と共に760余人(他説では800人)を率いて出征して、加藤清正配下の二番隊に属した。 ところが遠征中、国許では騒動が起きていた。竹下監物の一族の1人が出征拒否を理由に領地を没収されたのを、監物は犬童一族の陰謀と思い、湯前城に立て籠もり、犬童氏を滅ぼそうと檄を飛ばすという事態に発展していた。領国の乱は朝鮮にいた頼房の耳にも届き、深水頼蔵を疑って責めたが、彼は知らぬと言い、関与を否定した。文禄3年(1594年)8月15日、頼房は朝鮮より家臣を派遣して監物に切腹を命じた。上意に誰も逆らえず、監物とその二子、郎党ら数名が腹を切って事は収まったが、この騒動は長く相良藩の禍根となった。 頼房は、文禄4年(1595年)に犬童頼兄を先に帰国させて休矣と共に領国の鎮撫を命じた。慶長元年(1596年)に帰国した際、途中まで同行した深水頼蔵は(暗殺を恐れて)加藤清正の元に出奔し、実父の深水織部も同じく出奔した。頼兄はその妻子を軟禁したので、竹下監物の旧臣ら数十名が湯前から人吉にきて奪還を図り、再び騒動となった。奪還は諌止されたが、関係のない町家で殺傷事件が起こされた。頼蔵は加藤家領の佐敷に入り、それを追って深水一族から出奔者が相次いだが、これを犬童頼兄は監視させ、頼房の命をうけて73名を一挙に誅殺した。これは私闘を禁じた秀吉の惣無事令の明確な違反であり、頼蔵が清正を通じて訴え出たため、奉行である石田三成が頼蔵と頼兄を呼び寄せて吟味することになった。しかし頼兄は弁が立つ上に、石田三成は加藤清正に敵意があり、頼兄に一方的に味方した。 慶長の役が始まると、再び頼房は出征して加藤清正の配下となり、特に安辺城の防戦と、蔚山城の戦いで功を挙げ、秀吉から感状を与えられた。頼房は戦利品として朝鮮人捕虜を数十名連れ帰ったが、彼らを住まわせた場所が唐人町(現在の人吉市七日町)で、その中の陶工が開いた窯が、上村焼窯(現あさぎり町内)である。
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豊臣政権時代
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詳細は「小田原征伐」を参照 天正13年(1585年)冬、次男の信繁が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従した。 天正14年(1586年)には佐久に侵攻する。5月25日には北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退した。7月には家康が昌幸征伐のために甲府に出陣する。しかし8月7日に秀吉の調停を受けて真田攻めを中止。その代わりに11月4日、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となった。 天正15年(1587年)2月に上洛。3月18日に昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見し、その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となった。なお、真田氏は上杉氏を介して豊臣大名化を遂げたのではなく、上杉氏には真田氏を豊臣大名化させる意志はなかったため、昌幸が独力で交渉窓口を切り開いたが、有力な取次と関係を構築できなかったので、豊臣大名化が遅れた。 天正17年(1589年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る。この頃、昌幸は在京していたが、11月には北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、これが惣無事令違反とみなされた。この名胡桃城奪取事件の際、昌幸から同城代に任命されていた鈴木重則は昌幸に対して責任を取る形で自害した。この名胡桃城奪取事件は天正18年(1590年)の小田原征伐の原因となる。 小田原征伐に際しては、天正18年(1590年)1月8日に秀吉から3か条の条目を与えられている。3月上旬には上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り、北条家重臣の大道寺政繁が守る松井田城を攻めた。この小田原征伐の間、昌幸は秀吉・石田三成らと相互に情報交換を繰り返しており、松井田城包囲中に三成宛に「上野国中に悉く放火仕る」と報告している。松井田城攻略後は上野における北条家の属城を次々と落とし、4月29日付の秀吉の昌幸宛書状では北条属城の攻略を受けてその仕置を命じられて、武器・兵糧・弾薬の没収を務めている。以後、北陸軍は上野・武蔵など関東北部の北条属城を落としながら南下する。石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされている。 北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担った。昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担った。昌幸は秀吉から家康の与力大名とされていたが、沼田問題で昌幸の在京期間が長期に及んで秀吉の信任を得る事になり、正式に豊臣系大名として取り立てられていた可能性が指摘されているが、それを示す直接的史料は無い。なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立した。 文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に在陣した。昌幸は秀吉の命令で500人の軍役が課されており、16番衆組として徳川家康ほか関東・奥羽諸大名の中に編成された。昌幸は渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に文禄2年(1593年)8月29日に大坂に帰陣した。この1年半の間、上田領内に発給した昌幸の文書は皆無であり、上田統治は家臣に任せていた可能性が高い。 大坂に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられた。そのため昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担したが、この間に豊臣秀頼が生まれたため、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられて普請に当たっている。昌幸は普請役では知行高の5分の1の人数負担が割りふられており、その人数は270人を数えている。ただし扶持米は豊臣家から支給された。また、築城工事の最終段階で木曽材の運搬役を秀吉から命じられている。 この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594年)11月2日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。なお、信繁はこの頃になると昌幸の後継者としての地位を固めつつあった。また、同年4月には、昌幸は自称だった安房守に正式に任官されている(従五位下安房守)。 慶長2年(1597年)10月、秀吉の命令で下野宇都宮城主の宇都宮国綱が改易されると、その所領没収の処理を浅野長政と共に担当した。 時期不明であるが、秀吉から羽柴の名字を与えられたのであろう「羽柴昌幸」の文書が残っている。
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