鶴ヶ岡城
大宝寺城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 04:12 UTC 版)
鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏であると伝えられる。大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏を名乗った。室町時代初期になると武藤長盛なる武将が出てこの地に権勢を振るった。 戦国時代に入ると武藤氏は庄内地方の有力な勢力となったが、その地位は不安定であった。天文元年(1532年)には砂越氏維によって大宝寺城は焼亡し、当時の武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城に移した。そして大宝寺城はその支城の一つとなった。その後、越後の上杉氏と手を組み、武藤氏は庄内地方の統一を果たし、武藤義氏の時代に最高潮に達した。しかし、義氏は天正11年(1583年)、最上義光と結んだ家臣の前森蔵人(東禅寺義長)とその弟・勝正らの謀反により自害に追い込まれた。その後、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり期に乗じた上杉景勝によって、天正16年(1588年)あっけなく併呑された。 上杉氏もまた、尾浦城を庄内地方の本拠とし大宝寺城は支城とされた。天正18年(1590年)検地を行った際、これに抵抗した地侍を中心に一揆が起きた。この時、大宝寺城番芋川正親は城を守りきれず落城した。一揆の鎮圧にあたった直江兼続は大宝寺城の修復を行い越後兵を常駐させた。
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