大宝寺城とは? わかりやすく解説

鶴ヶ岡城

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 17:26 UTC 版)

鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)は、山形県鶴岡市馬場町にあった日本の城平山城)。




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大宝寺城

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鶴ヶ岡城」の記事における「大宝寺城」の解説

鶴ヶ岡城前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期出羽国大泉荘の地頭として封じられ大泉氏であると伝えられる大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏名乗った室町時代初期になると武藤長盛なる武将出てこの地に権勢振るった戦国時代に入ると武藤氏庄内地方有力な勢力となったが、その地位は不安定であった天文元年1532年)には砂越氏維によって大宝寺城は焼亡し、当時武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城移した。そして大宝寺城はその支城一つとなったその後越後の上杉氏手を組み武藤氏庄内地方統一果たし武藤義氏時代最高潮達した。しかし、義氏は天正11年1583年)、最上義光結んだ家臣前森蔵人東禅寺義長)とその弟・勝正らの謀反により自害追い込まれた。その後庄内地方上杉氏と最上氏争奪の地となり期に乗じた上杉景勝によって、天正16年1588年あっけなく併呑された。 上杉氏また、尾浦城庄内地方本拠とし大宝寺城は支城とされた。天正18年1590年検地行った際、これに抵抗した地侍中心に一揆起きた。この時、大宝寺城番芋川正親は城を守りきれず落城した。一揆の鎮圧あたった直江兼続は大宝寺城の修復行い越後兵を常駐させた。

※この「大宝寺城」の解説は、「鶴ヶ岡城」の解説の一部です。
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