豊臣政権期の改易から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 20:54 UTC 版)
「織田信雄」の記事における「豊臣政権期の改易から晩年」の解説
天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、伊豆韮山城攻めから、小田原城包囲軍に転属し、武功をあげる。しかし、戦後の論功行賞で、家康旧領(駿遠三甲信5ヵ国)への移封命令を、父祖の地の尾張からの移動を嫌がり拒否したことから、秀吉の怒りを買って改易される。改易されたのは7月13日とされる。7月14日から8月4日の間が正しいのではないかとの説もある。また京都舘に天皇行幸啓のための「内府屋形」を建設中だったのを危険視されたとの説もある。改易後は下野国烏山(一説に那須とも)に流罪となり、出家して常真と号した。 その後、出羽国秋田の八郎潟湖畔、次いで伊予国へと流され、文禄元年(1592年)の文禄の役の際に家康の仲介で赦免され、御伽衆に加えられて大和国内に1万8000石を領した。肥前名護屋城にも兵1500を率いて着陣したという(『太閤記』)。 嫡男・秀雄は越前国大野に5万石を与えられていた。 関ヶ原の戦いでは、大坂にあって傍観的態度に終始している。一説には石田三成を支持したとも、畿内における西軍の情勢を密かに家康へ報じていたとも伝えられる。しかし、傍観的態度を西軍に与したと判断されたためか、嫡男の織田秀雄ともども改易されている。 戦後は豊臣家に出仕したが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身する。当時、信雄が豊臣方の総大将になるとの噂もあった。のちに家康から大名に取り立てられていることから、大坂城内での情報を流す間者であり、その働きが評価されるほどであったと推察される。
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