生母について
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一般的には信長とお鍋の方の長子とされるが、裏付ける証拠としては、小倉氏の旧領山上に所領を与えられたことなど少ない。 お鍋の方が近江の実家に隠棲した際に伴ったのは同母弟とされる織田信吉で、お鍋の方の夫小倉実房の愛知郡の所領も信吉に与えられており、お鍋の方と信高の繋がりは史料からは確認できない。また、信吉よりも出生が後でありながら織田家中においては席次が上にきており、お鍋の方とは別の上位の側室が生母の可能性も示唆される。この側室については存在を含め一切不明であるが、後に信高が西美濃三人衆の氏家直元の次子である氏家行広に預けられていること、直元長男の氏家直昌が織田信孝と秀吉の戦いに際して信孝についた折、行広と共に信高も宇都宮で蟄居していることから、氏家氏か氏家氏ゆかりの西美濃の有力国人の娘である可能性が高い(蟄居するということは、縁者として連座したと解釈できる)。信高自身の正室の生家である佐々氏も尾張国北西部の春日井郡であり、西美濃とはそれほど離れていない。 当時は佐々成政の没落前(ことによると、信孝の切腹前)でもあることから、信高生母の一族と本領が近い佐々氏が秀吉との対抗上地縁があり、生母の身分も高い信高と縁組して織田家の外戚となろうとしたと考えると自然であろう。 このほか、幼名との繋がりから織田信秀(大洞)と同腹との推測もあるが、信秀の生母は稲葉氏との推測が現在有力であり、また信秀生母は秀吉の側室となったと言われ、この説が正しいとすると信秀は秀吉の一族として羽柴姓を許されたほか侍従、2万から5万石級の大名に昇進しているのに対して、信高は羽柴姓を許されているのみで官位は従五位下左衛門佐、所領も2000石どまりであることの説明がつかないことから、同腹である可能性は低いと考えられる。信孝、成政と縁故が深い側室の子とすると、豊臣政権時代の冷遇、江戸開幕後に高家に取り立てられ厚遇されたことの説明がつく(佐々成政は秀吉の覇権確立期にはさらさら峠越えなど、家康に接近する姿勢を取っていた)。大洞、小洞ともに、美濃の地名であることから、それぞれの生母の出身に由来したとも考えられる。
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生母について
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母については「示現流聞書喫緊録附録系図」では二階堂氏で、「平姓東郷氏支族系図」では前妻比志島氏である。なお、「鹿児島県史料 旧記雑録 諸氏系図」では比志島義時の孫娘が東郷藤兵衛重通(実満のことと思われる)の妻であり、比志島氏が実勝の母という説が正しいということになると、家老比志島範房の養従兄弟ということになる。 また、二階堂氏は「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」によると家格御小姓与で元田布施郷士の二階堂源右衛門行格の次女で、島津綱貴の側室の妹という。二階堂氏が実勝の生母であるというのが正しいと、実勝は島津主水久房の従兄弟ということになる。
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生母について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:44 UTC 版)
父清衡の正室に北方平氏の名がよく見える。しかし、この女性が清衡の正室に迎えられた時、20歳代だったと思われるため、基衡の生母は安倍氏の娘、もしくは信夫佐藤氏の娘ではないかとも考えられている。なお、清衡の元妻が清衡の死後に上洛して都の検非違使・源義成と再婚し、所々へ追従し、珍宝を捧げて清衡の二子合戦を上奏して都人の不興を買っている。この女性が当時30歳代の北方平氏とされ、基衡と反目し、後継者争いに関わって平泉を追われたのではないかと推測されている。
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