永楽帝はトゴン・テムルの子であるとする説
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「トゴン・テムル」の記事における「永楽帝はトゴン・テムルの子であるとする説」の解説
明の第3代皇帝永楽帝の生母について、モンゴル史料である『アルタン・トブチ』や『蒙古源流』においては、永楽帝の生母はトゴン・テムルの妃でコンギラト出身女性であり、洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、したがって、永楽帝はトゴン・テムルの子であると記されており、中国側でも同様の説が広まっている。 関連して、永楽帝の父親とされるトゴン・テムルもコシラの実子ではないといわれており、南宋最後の皇帝恭帝がトルコ系の女性との間にもうけた遺児であるという説があり、その説との関連性を指摘する周清澍(内モンゴル大学)などの研究者も存在する。 周清澍(内モンゴル大学)によると、永楽帝をトゴン・テムルの子と記述するもっとも早い漢籍は、1623年の『南京太常寺志』であり、永楽帝の生母を碽妃(中国語版)と記述し、その後の諸文献は大体『南京太常寺志』の記述を踏襲している。さらに、明孝陵奉先殿内の配列を根拠に、中央に洪武帝と馬氏をはじめ、東側には諸妃を並べたのに対し、西側は碽妃(中国語版)ひとりだけの神座があり、これだけ優遇されているのは、永楽帝の生母であるからだ、と諸文献は伝えている。 モンゴルには、永楽帝はトゴン・テムルの子であるとする無数の民間伝承やそれらを書きとめた写本も数多あり、アントワーヌ・モスタールトは、これらの民間伝承を採録し、世界に伝えたことで知られる。 永楽帝は父・洪武帝の実録である『明太祖実録(中国語版)』の出来が自身に都合が悪いことがあったらしく気に入らず、3回も編纂し直しを命じている所から見て、自身に都合の悪い記述を永楽帝が改竄している可能性は否定できず、永楽帝が記述に脚色を加えたり、粉飾を行ったという疑いが濃厚である。永楽帝の母親を馬氏とする『明実録』も燕王朱棣が永楽帝になってからの記載であり、当然粉飾が加わっている。 寺田隆信によると、永楽帝の生母について「馬皇后説」「達妃説」「碽妃説」「トゴン・テムルの妃説」など5説前後に分けられるとするが、寺田隆信は「今日となっては調査する材料もない」として諸説を紹介するにとどめている。
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