生母の問題について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:19 UTC 版)
永楽帝の母親について、実際は高麗貢女の碽妃だったとする説がある。永楽帝は生母の身分が卑しいことに劣等感を持ち、靖難の変の頃から洪武帝の皇后であった馬氏が母親であると僭称した、とするものである。 モンゴル側の史料である『アルタン・トブチ』や『蒙古源流』においては、永楽帝の生母は大元ウルスの順帝トゴン・テムルの妃でコンギラト部出身の女性であり、洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、従って永楽帝はトゴン・テムルの子であると記されているが、中国側でも同様の説が広まっている。また、その説において永楽帝の父親とされるトゴン・テムルもコシラの実子ではないと言われており、民間では南宋最後の皇帝恭帝の遺児であるという説があり、その説との関連性を指摘する周清澍(内モンゴル大学)などの研究者も存在する。 周清澍(内モンゴル大学)によると、永楽帝をトゴン・テムルの子と記述するもっとも早い漢籍は、1623年の『南京太常寺志』であり、永楽帝の生母を碽妃(中国語版)と記述し、その後の諸文献は大体『南京太常寺志』の記述を踏襲している。さらに、明孝陵奉先殿内の配列を根拠に、中央に太祖朱元璋と馬皇后をはじめ、東側には諸妃を並べたのに対し、西側は碽妃(中国語版)ひとりだけの神座があり、これだけ優遇されているのは、永楽帝の生母であるからだ、と諸文献は伝えている。 モンゴルには、永楽帝はトゴン・テムルの子であるとする無数の民間伝承やそれらを書きとめた写本も数多あり、アントワーヌ・モスタールトは、これらの民間伝承を採録し、世界に伝えたことで知られる。 永楽帝は父・洪武帝の実録である『明太祖実録(中国語版)』の出来が自身に都合が悪いことがあったらしく気に入らず、3回も編纂し直しを命じている所から見て、自身に都合の悪い記述を永楽帝が改竄している可能性は否定できず、『明太祖実録(中国語版)』には、「碽妃は永楽帝が生まれてから5年後に中国に来た」という記述があるが、永楽帝が記述に脚色を加えたり、粉飾を行ったという疑いが濃厚である以上、容易く信頼できず、永楽帝の母親を馬氏とする『明実録』も燕王朱棣が永楽帝になってからの記載であり、当然粉飾が加わっている。 寺田隆信によると、生母について「馬皇后説」の他「達妃説」「碽妃説」「元の順帝の妃説」など5説前後に分けられるとする。ただし寺田自身は「今日となっては調査する材料もない」として諸説を紹介するにとどめている。 ちなみに公式に馬氏を生母とする洪武帝の子女は永楽帝の他に、朱標(建文帝の父)、朱樉、朱棡、寧国公主、朱橚、安慶公主の6人が記録されているが、寧国公主と安慶公主以外の子女の生母は別にいるという説が唱えられており、永楽帝以外の男子4人にも生母に関して疑義が呈されている。
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