生母・麻績氏(太方様)の消息
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「諏訪御料人」の記事における「生母・麻績氏(太方様)の消息」の解説
早くに死去したとされる諏訪御料人に比べ、その生母の麻績氏は、武田家の当主となった武田勝頼の外祖母として、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡まで存命している。太方様(おだいぼうさま)と称された。 天文11年(1542年)に、夫の頼重が切腹し、諏訪惣領家が滅亡した後は、同じ諏訪氏の一族の禰津元直の元に、娘と共に身柄を預けられていたという説がある。 禰津元直の息子の禰津神平は、武田信虎の娘婿でもあり、武田氏と諏訪氏双方と関わりが深かったため、禰津元直の元に小見氏と諏訪御料人は預けられたと考えられている。その後、何年かは不明だが、娘が信玄に嫁いだ後、小見氏は引き続き、禰津元直の元に身を寄せていたと思われる。 『信州日牌帳』によれば、永禄8年(1565年)3月21日には勝頼による逆修供養(生前供養)が行われている。勝頼と共に高遠城で暮らしていたという。天正3年11月に勝頼が諏訪南宮(長野県辰野町)へ奉納した棟札には、勝頼嫡男の信勝(武王殿)とともに「御祖母」の名が記されている。天正6年(1578年)10月には被官の池上清左衛門が無足で奉公していたことを知った麻績氏は、勝頼の側近小原継忠・跡部勝忠に依頼し、彼に五貫文の所領を与えてくれるように頼み、それを実現させたという。麻績氏直筆の仮名書きに朱印を据えた消息も残されている。 さらに、勝頼・鎮目左衛門尉により鎮目寺(山梨県笛吹市春日居町鎮目)に奉納された棟札にも「大奉様」の名が記されている。この棟札は年未詳であるが、武田家臣のうち甘利信恒・山県昌満両名の名が見られ、甘利信恒は天正4年(1576年)9月に陣中で殺害していることから、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いから天正4年の間に推定されている。『信長公記』によれば、天正10年月3月11日に勝頼一行が天目山で自害した際に、勝頼に従った「勝頼の叔母大方」の名が見られることから、勝頼とともに自害したと見られている。 長野県長野市大岡地区天宗寺や同県朝日村古川寺に墓所がある。
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