尾張生駒氏とは? わかりやすく解説

尾張生駒氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 23:27 UTC 版)

生駒氏」の記事における「尾張生駒氏」の解説

生駒氏宗家である。灰(染料用)と油を扱い馬借として商い財を蓄え小折城居城としていた室町時代から江戸時代以後までの武家商人である。 3代生駒家宗の時、尾張犬山城主・織田信康属していたが、信康の甥・織田信長生駒屋敷出入りするようになり、後に仕えることとなる。桶狭間の戦い戦功により信長から安堵状を受け、領内自由に商売していた。家宗の子生駒吉乃信長側室となり信雄・徳姫産み信忠生母については違う可能性がある。 この生駒屋敷小折城)では、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、「吉乃信長への仕官求め仲介依頼した」、「草鞋を懐で温めて信長差し出した」などのエピソードが残る。これは武功夜話による(史料として偽書として反論が多い)また、地理的近接性から川並衆蜂須賀氏などとの交流養子婚姻関係みられる信長大躍進の裏には生駒家資金力情報収集力に基づく強固な後方支援存在していた。 4代家長5代利豊ともに信長仕え1900余石を知行した。本能寺の変後織田信雄仕え、信雄追放後浪人し、その後豊臣秀吉仕えた関ヶ原の戦いでは東軍福島正則軍に陣借りして参戦した戦後は、家康請われ幕臣格(旗本)として松平忠吉尾張入府案内をしたが、忠吉死後利豊徳川義直仕え尾張藩士(尾張衆の部)となる。 なお、利豊の兄・生駒善長分家阿波生駒家となり、姉・慈光院ヒメ)は蜂須賀家政正室となり、徳島藩主至鎮を産んでいる。 6代利勝以後幕末まで加増繰り返し4000石の尾張藩士として存続した。 尾張藩尾張徳川家)の家老職勤めている。廃藩置県後士族として尾張徳川家相談人、士氏族年金管理銀行家となり近代迎えた

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