出自・生涯
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明国からの帰化人・高寿寛の孫の深見元岱の一族の子孫という深見家で誕生し、後に分家する。『鹿児島城下絵図散歩』によると、現在の鹿児島県鹿児島市照国町の地に住んでいた。 坂口兼儔の門人となって、真影流を学ぶ。剛毅な性格であったといい、後に故あって謝絶して江戸に上って直心影流師範の長沼万郷(長沼四郎左衛門)の門人となり、皆伝を授かった後に薩摩藩に戻り、真影流の道場を開いた。 関広国(関勇助)の後任として徳之島蔵方目附となり、徳之島に渡る。鹿児島に戻った3年後に江戸で死去し、曹洞宗泉谷山大円寺に葬られる。 嗣子ないため本家から養子を迎えるが、これが深見有正である。深見の系統の真影流は深見流と呼ばれた。
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出自・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:14 UTC 版)
菩提寺の久昌寺 久昌寺墓地(一番右が吉乃の墓) 尾張生駒氏の生駒家宗(八右衛門)の長女。(愛知県江南市出身)『前野家文書』は初めの夫を土田弥平次とする。弘治2年(1556年)に夫が戦死し、実家に戻っていたところを信長に見初められ愛妾となったが、以降も生駒屋敷に住み続けた。信雄・徳姫(所説有り)を産んだが(信忠生母は不明)、産後の肥立ちが悪く若くして亡くなった。享年39歳(29歳という説もあり)。香華料として菩提寺の久昌寺に660石が贈られた。その後、豊臣秀吉にも保護され、江戸時代は織田家(信雄流)柏原藩により度々法要が営まれていた。 菩提寺の久昌寺と荼毘地(江南市田代墓地)に墓碑が存在する。久昌寺の吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されているが、久昌寺には専属住職がおらず、建物の老朽化に伴い維持管理が難しくなった為、廃寺が決定した。伽藍は2022年5月より解体し、境内敷地は江南市に売却され2023年度に公園として整備される見込み。なお廃寺後も、吉乃を含む生駒家歴代の墓は残される。また旧境内に近接して、久昌寺の旧本尊や吉乃らの位牌を安置する小堂が建てられる予定となっている。
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