出自・略史とは? わかりやすく解説

出自・略史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 16:14 UTC 版)

足利氏 (藤原氏)」の記事における「出自・略史」の解説

藤原秀郷の子孫は代々坂東各地国司鎮守府将軍歴任していたが、淵名兼行の代に上野国土着し、その子成行下野国足利郡本拠として足利名乗った。ただし、兼行成行系図以外の史料では確認できない確実な史料現れるのは足利成綱足利家綱からで、京で行われる相撲節相撲人としてたびたび参加している。天永2年1111年)の相撲節で成綱は「奈波四郎」と呼ばれており(『長秋記8月21日条)、上野国衙の近隣である那波郡現在の群馬県伊勢崎市)を拠点としていた。藤姓足利氏分流である大胡那波・佐位・佐貫・薗田は上野東部の地名であり、天仁元年1108年)の浅間山噴火荒廃した上野国東部再開発担って勢力扶植したと推測される家綱上野国との関係が深く永久2年1114年8月国衙領雑物押し取ったとして、上野国司が家綱検非違使庁告発している(『中右記8月16日条)。家綱在地における勢威国司にも対処できないであったことがうかがえるが、この時に郎党監督責任巡って源為義源義国争論しているので、家綱河内源氏主従関係結んでいたと思われる康治元年1142年)、開発領主である家綱院北面として中央人脈有する義国の連携により、安楽寿院領足利荘が立券された。家綱現地管理する下司、義国が上位預所として利益分配したと見られるが、両者協力関係翌年には綻び見せ始める。足利荘の南にある簗田御厨家綱荒木田利光口入人として成立させた伊勢神宮内宮であったが、康治2年1143年)に義国が介入して内宮口入人荒木田元定外宮口入人度会彦忠とする二宮領として再寄進した。これを不服とした家綱は義国と争論するが、鳥羽院裁定により義国が勝訴して「本領主」と認められ家綱簗田御厨権益奪われるとなった。もっとも両者の関係がすぐに破綻したではなく保元の乱では家綱の子・俊綱が下野国から八田知家並んで源義朝配下として参戦している。 しかし、新田義重保元2年1157年金剛心院新田荘下司任じられ在地への関与強めると、藤姓足利氏と義国流は競合することになる。新田荘開発には藤姓足利氏も関わっていたと推測されるが、義重の下司補任により荘内から排除された。義国流による圧迫はついに足利荘にも及び、仁安年間1166年1169年)、俊綱はある女性凶害したことで足利荘領主職を得替となり、平重盛新田義重足利荘賜うという事態となった。俊綱の愁訴により足利荘改替は何とか回避されるが、新田氏との対立決定的となった治承4年1180年5月以仁王の挙兵では、俊綱の嫡子忠綱平氏軍加わり宇治川先陣渡河して敵軍討ち破る大功立てた忠綱勧賞として俊綱のかねてから望みであった上野十六郡の大介任官新田荘屋敷所にすることを平清盛願い出た。しかし他の足利一門勧賞平等に配分するよう抗議したため撤回となった。この勧賞撤回騒動藤姓足利一門内部分裂萌芽といえる。やがて、競合する源姓足利義兼新田義重との角逐や一門の分裂などで藤姓足利氏取り巻情勢厳しいものとなり、内乱過程源頼朝滅ぼされた。大胡佐野阿曾沼のなどの一門頼朝帰順し鎌倉御家人として発展した

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