出自・由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 00:12 UTC 版)
本来の名は契此(かいし)(または釈を付けて釈契此(しゃくかいし))。常に袋(頭陀袋)を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。その姿は風変りであったが素直な気持ちの持ち主で、人々を満ち足りた気持ちにさせる不思議な力を持っていたという。 契此には様々な伝説がある。「景徳傳燈録」にある伝説では雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかったという。また人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話も伝えられる。 謎めいた公案のような問答も残されている。偈や歌も残しており、歌の中では、心の真実の大切さや、閑たる心境を求めることを説く。 その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類している。天復年間(9世紀末)に奉川県で亡くなり(貞明3年(917)に嶽林寺で遷化したという説もある)埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある。 「景徳傳燈録」によると布袋は死の間際に 彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず) —布袋和尚、景徳傳燈録 という名文を残した。このことから、実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝説が広まったという。 なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、10世紀後半に記された『宋高僧伝』巻21「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって11世紀初頭、『景徳傳燈録』巻27に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智顗、寒山拾得らの異僧・高僧と共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。
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