出自・概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 20:31 UTC 版)
藤原北家勧修寺流の流れを汲み、鎌倉時代の中頃まで京都の下級貴族地下家の家柄であった。『続群書類従』所載「上杉系図」によれば、1252年、藤原北家勧修寺流支流の地下家の藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府将軍(皇族初の将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して武家化し丹波国何鹿郡上杉荘(うえすぎのしょう、現在の京都府綾部市上杉町周辺)を領して、上杉氏を称した。 重房の孫・上杉清子は、足利尊氏の生母。尊氏が室町時代、初代将軍になると、生母の実家として上杉氏は重んじられた。上杉清子の兄・上杉憲房は、上野の守護に任じられ、憲房の子・上杉憲顕は上野・越後・武蔵の守護と関東管領になり、足利氏の姻戚として勢力を伸ばした。関東管領の職を世襲し、一門で上野、越後、武蔵、相模の4か国の守護を占める有力守護大名として栄えた。しかし、従来より鎌倉府に仕え関東に拠点のあった山内上杉家と、当初は室町幕府に仕えて京都に居住した扇谷上杉家が、関東の覇権をかけて内紛を起こし次第に勢力を衰退させる。 戦国時代には関東における覇権を新興勢力である後北条氏に押され、山内上杉家の15代当主上杉憲政は、越後の守護代であった三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。景虎は山内上杉家の家督を継いで上杉政虎(輝虎)と名乗り、関東管領に就任した。これにより再び上杉氏は勢いを取り戻し、謙信晩年には能登・加賀まで勢力を伸ばす。 謙信の家督を継いだ上杉景勝(越後長尾氏の上田長尾家の出身)は豊臣政権の五大老を務め、会津藩120万石、江戸時代は米沢藩30万石(実高51万石)を領した。 後に無嗣の危機に瀕したこともあり15万石(実高33万石)に減知されたが、幕末まで 大名としての地位を維持した。明治維新後は華族に列し、伯爵(分家の米沢新田藩は子爵)を授けられた。 ほかに江戸幕府の旗本にも上杉氏4家(上条、深谷、加賀爪、宅間)があり、上条上杉は高家となる。加賀爪上杉と深谷上杉からは、江戸南町奉行・大目付・勘定奉行などを務める当主が出ている。
※この「出自・概略」の解説は、「上杉氏」の解説の一部です。
「出自・概略」を含む「上杉氏」の記事については、「上杉氏」の概要を参照ください。
- 出自・概略のページへのリンク