尾張織田氏との同盟から滅亡へとは? わかりやすく解説

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尾張織田氏との同盟から滅亡へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:18 UTC 版)

浅井氏」の記事における「尾張織田氏との同盟から滅亡へ」の解説

永禄3年1560年)、嫁を強制送還した新九郎強硬派家臣率いて六角氏との決戦臨んだ野良田の戦いでは、義賢大勝する浅井氏六角氏から独立させると、久政は家臣たちから強制的に隠居させられ浅井家当主の座には新九郎こと、浅井長政が座ることになる。しかし、久政の政治的発言力が完全に失われたわけではなく隠居後も彼は浅井家中において一定の発言力有していたという。 長政永禄10年頃に美濃支配した尾張国織田信長と同盟を結び、信長の妹のお市の方を妻として迎えて六角氏からの自立図った信長将軍足利義昭奉じて上洛し、義昭通じて畿内地方影響力強めており、信長との同盟臣従であったが対六角氏との関係では効果的に機能した。しかし、元亀元年1570年)に、信長浅井氏同盟国ある朝倉義景を攻めるべく越前侵攻すると、家中には動揺生じたという。 信長朝倉侵攻に際して家中では織田朝倉のどちらに味方するべきか意見分かれるが、浅井久政宿将赤尾清綱らが親朝路線主張したためか、同年4月には長政信長との同盟破棄し織田軍に背後から襲いかかっている(金ヶ崎の戦い)。これにより長政信長同盟関係手切となり、以後両者対立関係となる。同年6月には浅井朝倉勢と織田勢との間で勃発した姉川の戦いにおいて敗退する。 その後朝倉氏の他に摂津三好氏や、六角氏など信長圧迫されていた勢力対抗姿勢強める。元亀2年には信長将軍義昭敵対し義昭浅井朝倉氏本願寺など畿内勢力のほか甲斐国武田氏などの遠方勢力呼びかけ信長包囲網迎合するが、元亀4年甲斐武田信玄三河尾張への侵攻西上作戦中に病没すると、信長反攻強めた同年信長将軍義昭を京から追放し天正元年1573年)に織田勢が浅井氏本拠である小谷城侵攻すると(小谷城の戦い)、朝倉氏小谷城への救援のため派兵するが織田勢に敗退し滅亡する一乗谷城の戦い)。小谷城において抗戦した長政・久政親子自害し浅井氏滅亡した

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「尾張織田氏との同盟から滅亡へ」を含む「浅井氏」の記事については、「浅井氏」の概要を参照ください。

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