尾張藩の御用達七家衆
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「十一屋 (名古屋)」の記事における「尾張藩の御用達七家衆」の解説
徳川家康の子で尾張徳川家初代の徳川義直が清洲城から名古屋城に居城を移したのと同じ1615年(元和元年)に、小出庄兵衛が摂州音羽村(現在の大阪府茨木市)から居を移して十一屋の屋号で小間物商を始めたのが始まりである。 1654年(承応3年)に玉屋町へ移り、尾張藩の御用達商人の七家衆に位置付けられる豪商となり、1799年(寛政11年)には藩の御用達として第3位に挙げられるまでに成長した。 名古屋の尾張藩御用達商人は1868年(慶応4年)で353名で、三家衆、除地衆、御勝手御用達など数段階に分けられていたが、十一屋の小出庄兵衛は、最高位の三家衆(関戸哲太郎、伊藤次郎左衛門、内田鋼太郎)に次ぐ除地衆の一人として熊谷庄蔵や岡谷惣助、伊藤由三郎と共に名を連ね、三家衆と除地衆を合わせた七家衆に位置付けられていた。 また、伊藤次郎左衛門のいとう呉服店(後の松坂屋)や下むら呉服店(大丸屋呉服店という言い方もあった後の大丸)、桔梗屋と共に名古屋の4大呉服店の一つとして数えられる有力な呉服店となっていた。 その他にも、熱田前新田の一部で、南の割とも呼ばれた地域を所有する地主なっており、名古尾市港区十一屋町という地名は小出庄兵衛の屋号に由来している。
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