尾張藩主就任後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 05:21 UTC 版)
この頃、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}宗春の放漫財政によって尾張藩の財政窮乏化は深刻化していた。このため藩主となった宗勝は、藩財政再建を主とした藩政改革を試みる。自ら倹約を率先して行い、領民を苦しめないために増税を行なわないという、いわゆる緊縮財政政策を採用したのだが、これが成功して藩財政は再建されることとなった。[要出典]ただしこれには、先代・宗春の頃に築かれていた基盤があってこそという意見もある。 ともあれ宗勝が名君であったのは明らか[要出典]で、布施蟹養斎を登用して藩校・明倫堂の前身となる学問所を創設、さらに様々な文化的書物の編纂の他、刑法の整備などもおこなっている。刑法の整備においては寛容な一面がある一方、盗賊取締りのために死刑制度を復活させるなどの厳しい一面もあった。 先代藩主に宗春がいたためか、宗勝の影は薄いが、尾張藩の名君の一人とされる。 宝暦11年(1761年)6月22日、57歳で死去し、跡を次男の徳川宗睦が継いだ。 15男11女という子宝に恵まれた人物であり、八男・竹腰勝起の三男井上正瀧を通じて、藩祖・義直の男系子孫が現在も続いている。さらに五男・松平義当を通じて、現在の徳川宗家に血脈を伝えている。
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