尾張藩主就任以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 05:21 UTC 版)
幼少時は祖母の縁者・鈴木重兵衛のもとで養育された。その後も低身分の役人の下で幼年期や青年期を過ごした。幼名は代五郎、のち友相(ともすけ)、友淳(ともあつ)と名を改め、享保17年(1732年)、尾張藩の支藩・高須藩の松平義孝の養嗣子となってその跡を継いだ。高須藩時代は松平義淳(まつだいら よしあつ)と名乗る。しかし、元文4年(1739年)正月13日、尾張藩主であった従兄の宗春が将軍・徳川吉宗によって強制的に隠居させられると、その跡を継いだ(厳密には宗春の養子となったわけではなく、一旦収公された藩領を宗勝に下す形で尾張藩を継いだ)。高須藩主は三男の松平義敏が継いだ。のち将軍・吉宗から偏諱の授与を受けて宗勝と改名する。
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