千本資俊とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 千本資俊の意味・解説 

千本資俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 08:52 UTC 版)

 
千本 資俊
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永2年(1519年
死没 天正13年12月8日1586年1月27日
戒名 杸翁樴公[1]
官位 常陸[1]
主君 那須高資資胤資晴
氏族 千本氏
父母 父:千本資次
資政
養子:義隆(茂木治清次男)
テンプレートを表示

千本 資俊(せんぼん すけとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将那須氏の家臣。

生涯

千本氏は那須氏の庶流で那須七騎の一つ。千本資次の子として誕生。

本家である那須氏を主家として仰ぐ立場であったが、天文20年(1551年)、下野宇都宮氏の家臣・芳賀高定の謀略にかかり、主君・那須高資千本城に誘殺した[2]。そのため一時、那須氏を追われたが、高資の死によって当主の座についた那須資胤に許され帰参、腹心として権勢を振るった。大関高増らが下那須衆を扇動して佐竹義重に寝返った時は呼応せず資胤の下に残った。

永禄9年(1566年)の治部内山の戦いでは佐竹氏家臣・佐竹義堅と大関高増ら下那須衆、加えて宇都宮氏からの援兵を合わせた3,300人の兵で攻められたが資俊は数的不利を覆して連合軍を撃破し、義堅を生け捕りにして撤退させるという功を挙げた。

しかし資胤の死後に、大関高増の娘と子・資政が離縁した事で大関氏の反感を買う。天正13年(1585年)12月8日、高増は那須資晴に千本氏を討つ事を勧め承認を得ると、資俊は子・資政と共に太平寺に誘い出され、高増や大田原綱清に殺害された。享年67。

脚注

  1. ^ a b 『那須七系』
  2. ^ 『史料綜覧』第9編之910 328頁

出典




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「千本資俊」の関連用語

千本資俊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



千本資俊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの千本資俊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS