那須家臣に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/19 18:49 UTC 版)
「蘆野資泰 (大和守)」の記事における「那須家臣に」の解説
永禄4年(1560年)の白河結城氏・蘆名氏の侵攻を陸奥国小田倉で迎え撃った小田倉の戦いでは、那須資胤を援けて諸軍を指揮して守りに徹し、やがて大関高増や千本資俊らが援軍に来ると反撃に転じて白河結城・蘆名の連合軍を退けた。 同年に大関高増が那須氏を裏切って上那須衆を扇動して佐竹義重に内通した時は高増の調略に応じて資胤を見限り佐竹氏に付いた。しかし、治部内山、大崖山、霧ヶ沢で佐竹・上那須連合は相次いで資胤に敗北し、永禄11年(1568年)9月には上那須衆は資胤と和睦し、佐竹氏と手切れして那須氏の臣下に下った。
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