那須家臣時代
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蘆野氏は下野国の那須氏庶流の那須七騎の一つ。蘆野氏15代当主・蘆野資泰の長男として誕生。 天正13年(1585年)3月、父・資泰や主君那須資晴と共に薄葉ヶ原の戦いにて塩谷義綱・宇都宮国綱連合軍と対峙。この戦いで盛泰は那須軍先鋒を務め、敵300騎を討ち取るなど大いに奮戦し勝利に貢献した。また、同年末から翌天正14年(1586年)1月にかけて伊王野資信と大関清増が争った際には、婚姻関係を結んでいる大関側に与して伊王野資信を攻撃した。 天正16年(1586年)7月に那須軍が塩谷伯耆守の居城を攻めた時も先陣を駆けて城中に攻め入り、門を破壊した。
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那須家臣時代
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父や兄と共に那須資晴に仕え、天正13年(1585年)に那須資晴と宇都宮国綱との戦いである薄葉ヶ原の戦いで初陣。 天正16年(1588年)には病の父綱清に替わって上洛し豊臣秀吉と謁見を果たした。また、この上洛時に従五位下出雲守に叙任され、秀吉から呉服羽織を与えられた。 天正18年(1590年)の小田原征伐の際には、いち早い中央工作が功を奏して主の那須資晴が所領を没収され、他の那須七騎の諸氏も減封処分を受ける家が出る中で大関氏と大田原氏は所領を安堵されている。
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