千本城 (下野国)とは? わかりやすく解説

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千本城 (下野国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/13 04:52 UTC 版)

千本城
栃木県
別名 須藤城、教ヶ岡城[1]
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 千本為隆
築城年 1195年(建久6年)[1]
主な城主 千本氏
廃城年 1628年(寛永5年)[2]
遺構 本丸跡、二の丸跡、連結郭、帯郭、腰郭、武者走り[2]
指定文化財 県指定史跡
位置 北緯36度34分38秒 東経140度8分56秒 / 北緯36.57722度 東経140.14889度 / 36.57722; 140.14889座標: 北緯36度34分38秒 東経140度8分56秒 / 北緯36.57722度 東経140.14889度 / 36.57722; 140.14889
地図
千本城
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千本城(せんぼんじょう)は、栃木県芳賀郡茂木町町田にあった日本の城

別名を須藤城教ヶ岡城[1]。 規模は標高240m、東西に90m、南北に370m[1]

現在は『千本城跡』として栃木県指定史跡になっており[1]羽黒神社が鎮座し、サクラの名所としても知られている[3]

概要

那須資隆の十男・為隆が、源氏に属して平家滅亡に功をあげたことで、1195年(建久6年)[1]に千本を領して、教ヶ岡(千本)城を築いて以来、千本氏の居城となった[2]

1551年(天文20年)1月[2]には、千本資俊芳賀高定と謀り、那須高資を誘殺する事件の舞台になる。

これが元で、1585年(天正13年)12月8日に、千本資俊および千本資政の父子は、殺害された那須高資の甥・那須資晴の陰謀に会い、烏山の太平寺にて謀殺され、城は落城した[2]

千本氏は一時断絶し、その後、茂木三郎の二男・義政が千本義隆と称し千本城に養子に入り、茂木系千本氏が誕生する[2]

1628年(寛永5年)、千本義等の時に、城は炎上したとされる[2]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f 栃木県教育委員会. “とちぎの文化財【千本城跡】”. 栃木県教育委員会事務局文化財課. 2017年7月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 現地案内板 県指定史跡 千本城跡 ―須藤千本氏の七百年―
  3. ^ 栃木県歴史散歩編集委員会 『栃木県の歴史散歩』山川出版社、2007年。ISBN 4634246090 

関連項目




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