玉造門前の黒門市場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:59 UTC 版)
「黒門市場」なる市場は、歴史上はほかにもあった。そもそも、黒塗りの門は日本語で「黒門」と呼ばれることが多いので、その門前に市が立てば、その場は「黒門市場」と呼ばれておかしくない。 江戸時代前期、豊臣大坂城(豊臣政権時代の大坂城)の南東にあった玉造門(※現在の大阪市中央区玉造1丁目に所在した)が黒塗りの門であったことから、この門を「黒門」と通称し、その門前で開かれていた西成郡の玉造村などで産するシロウリ(越瓜、白瓜)の市場を「黒門市場」と呼ぶようになった。玉造村を主産地とする西成名産の越瓜(白瓜)は「玉造黒門越瓜(玉造黒門白瓜)」(cf. なにわ野菜)と呼ばれるようになり、「くろもん」の愛称でも親しまれた。江戸時代も半ばに差し掛かると、火が着いた伊勢神宮へのお蔭参りの熱量が全国に伝播し、江戸時代後期には地元の玉造稲荷神社も参詣客で大いに賑わうようになる。そのようななか、黒門市場も隆盛したという。しかし明治時代に入ってからは次第に衰え、明治時代半ばに消滅した。本項で解説している圓明寺市場(日本橋の黒門市場)と長く並存していたわけであるが、玉造門前の黒門市場は圓明寺市場が「黒門市場」と呼ばれ始める大正時代初頭より20年以上前に消えていて、異所同名の市場として並立することは無かった。
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