豊臣家臣としてとは? わかりやすく解説

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豊臣家臣として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 10:01 UTC 版)

浅野長政」の記事における「豊臣家臣として」の解説

信長死後秀吉仕え天正11年1583年)の賤ヶ岳の戦い戦功挙げて近江国大津2万石を与えられる天正12年1584年)、京都奉行職となり、のちに豊臣政権下の五奉行となる。長吉は、その卓越した行政手腕買われ秀吉に命ぜられて太閤検地実施するまた、東国大名との関係も深く豊臣政権諸大名から没収した金銀山の管理任されていた。 天正14年1586年)、秀吉の妹・朝日姫徳川家康正室として迎えられた際は、浜松まで赴いた天正15年1587年)、九州平定などでも従軍して活躍し同年9月5日若狭国小浜8万石国持ち大名となる。 天正16年1588年)、従五位下弾正少弼叙任される関東平定では忍城の戦い参加し攻城戦終盤戦後処理では石田三成に代わって、長政主導的な役割果たしていくことになる。天正18年1590年)の奥州仕置では実行役として中心的役割担った取次役として南部信直との関係を強め葛西大崎一揆九戸政実の乱対処した天正20年1592年)、豊臣姓を下賜された。 文禄2年1593年)、朝鮮出兵でも功績があり、加藤光泰死後収公されていた甲斐国府中215千石与えられ甲府城に入る。東国大名の取次役を命じられ南部信直宇都宮国綱那須資晴成田氏長らを与力とするが、その職務実施状況に不満をもった伊達政宗より絶縁状突きつけられた。 また、宇都宮国綱の突然の改易長政讒言があったとする説もある。これには諸説あるが、宇都宮興廃によれば国綱には継嗣無かったため、五奉行一人である長政三男浅野長重養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに反対し、縁組進めていた国綱側近今泉高光殺害してしまった。長政がそれを恨み思ったため、その讒言により改易されたとしている。傍証として、慶長2年1597年10月7日佐竹義宣から父・義重に宛てた書状がある。そこには、宇都宮氏与力大名とし姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令出されたが、石田三成取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉挨拶すべきだが、浅野弾正検使宇都宮領の調査向かっているので、それに覚られないよう密かに上洛するように」という三成から指示受けたことが書かれている。このことからも、宇都宮氏改易長政関与があったことが伺える。後に東北関東諸大名への申次は、徳川家康前田利家蒲生氏郷上杉景勝石田三成などに取って代わられた。 長政上方詰めていることが多く甲斐支配嫡男幸長在国して行った浅野氏近世確立した地域区分である九筋二領それぞれ国奉行配置し郡内領や河内領においても支配機構整えた。さらに甲斐における太閤検地実施甲府城修築行い甲斐支配進めた五大老筆頭徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行石田三成不仲であったとされているが、これには近年になって疑問提示されている。しかし、佐竹義宣から父・義重への手紙において三成から長政動向について密告があったことが記されていることからも、不仲と言えないまでも仲が良いとは言い難い状態であったことは確かである。 慶長4年1599年)、前田利長と共に家康から暗殺嫌疑かけられ謹慎し、家督幸長譲って武蔵国府中隠居した

※この「豊臣家臣として」の解説は、「浅野長政」の解説の一部です。
「豊臣家臣として」を含む「浅野長政」の記事については、「浅野長政」の概要を参照ください。

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