豊臣家滅亡の原因になった方広寺鐘銘事件とは? わかりやすく解説

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豊臣家滅亡の原因になった方広寺鐘銘事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:35 UTC 版)

方広寺」の記事における「豊臣家滅亡の原因になった方広寺鐘銘事件」の解説

秀吉の子豊臣秀頼遺志を継ぐ形で、豊臣家家臣片桐且元担当者として今度耐震性のある銅製大仏再建行ったが、慶長7年1602年11月鋳物師(いもじ)の過失により大仏膝上部の鋳造行っている際に出火し大仏殿引火して大火となる。これにより初代大仏のみならず初代大仏殿滅失した。義演准后日記には「日本六十余州山木、ただ三時のあいだに相果ておわんぬ太閤数年の御労功ほどなく滅しおわんぬ。(材は日本各地から取り寄せたが、わずか6時間で焼失した秀吉公の数年苦労水のとなった)」と記録される慶長13年1608年)より片桐且元奉行として再建開始され慶長15年1610年6月地鎮祭同年8月立柱式が実施されて、慶長17年1612年)には2代目大仏殿2代目大仏完成した続いて大仏金箔を押す作業に入る。慶長19年1614年)には梵鐘完成し徳川家康承認得て開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康鐘銘棟札文章疑義ありとして、同年7月26日開眼供養延期命じる。特に家康問題にしたのは、上記梵鐘銘文東福寺南禅寺住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康「君臣豊楽」の2句で、前者には徳川家康の「家」と「康」を分断する呪詛後者には豊臣君主として楽しむという底意隠されているという点だった。 これに対し銘文草した禅僧文英清韓と且元が弁明のために駿府赴いたが、家康は全く耳をかさなかった。それどころ家康は、豊臣家大坂城への浪人雇用責め、秀頼に対し国替え強要する。しかし、秀頼がこれに応じなかっために大坂冬の陣勃発。そして冬、夏の2回に渡る大坂の陣経て豊臣家滅亡する方広寺鐘銘事件)。なおこの事件徳川方言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのもの政治的な価値求め賜姓偏諱盛んに行なわれ武家社会において、銘文文言は、徳川に対して何ら底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局わきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元豊臣方の不注意責めないわけにはいかない」とする指摘もある。また大工棟梁勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿棟札にも不穏文字があるとされた。

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