豊臣家滅亡の原因になった方広寺鐘銘事件
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「方広寺」の記事における「豊臣家滅亡の原因になった方広寺鐘銘事件」の解説
秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぐ形で、豊臣家家臣の片桐且元を担当者として今度は耐震性のある銅製で大仏の再建を行ったが、慶長7年(1602年)11月、鋳物師(いもじ)の過失により大仏の膝上部の鋳造を行っている際に出火し、大仏殿に引火して大火となる。これにより初代大仏のみならず初代大仏殿も滅失した。義演准后日記には「日本六十余州の山木、ただ三時のあいだに相果ておわんぬ。太閤数年の御労功ほどなく滅しおわんぬ。(柱材は日本各地から取り寄せたが、わずか6時間で焼失した。秀吉公の数年の苦労も水の泡となった)」と記録される。 慶長13年(1608年)より片桐且元を奉行として再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には2代目大仏殿と2代目大仏が完成した。続いて大仏は金箔を押す作業に入る。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は鐘銘と棟札の文章に疑義ありとして、同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。特に家康が問題にしたのは、上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、前者には徳川家康の「家」と「康」を分断する呪詛、後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているという点だった。 これに対し、銘文を草した禅僧文英清韓と且元が弁明のために駿府へ赴いたが、家康は全く耳をかさなかった。それどころか家康は、豊臣家の大坂城への浪人雇用を責め、秀頼に対し国替えを強要する。しかし、秀頼がこれに応じなかっために大坂冬の陣が勃発。そして冬、夏の2回に渡る大坂の陣を経て、豊臣家は滅亡する(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意を責めないわけにはいかない」とする指摘もある。また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。
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