豊臣氏の誕生とは? わかりやすく解説

豊臣氏の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:43 UTC 版)

豊臣氏」の記事における「豊臣氏の誕生」の解説

秀吉は氏どころか苗字持たぬほど下層階級出身考えられるが、立身栄達により家系公称要するうになる平氏称した。これは主君織田信長模倣したものと考えられており、たとえば『公卿補任』の天正11年1583年)の項に「従四位参議」としてはじめ記載され以降関白になる直前天正13年1585年)の「正二位内大臣」まで、その氏名一貫して平秀吉」と記されている。 その後天正13年1585年7月関白叙任際し関白近衛前久猶子となり、氏を平から藤原改める。 そして翌天正14年、いよいよ秀吉はその氏を「豊臣」と改める。秀吉が自らの右筆である大村由己執筆させた『任官之事』(別名『関白任官記』)では「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と単純な前例踏襲拒否することを述べ「われ天下保ち末代名あり。ただ新たに別姓定め濫觴たるべし」として、秀吉特別に傑出した人物であるから源平藤橘にならぶ第五新しい氏を創始できるのだ、と高らかに宣言している。 改姓厳密な時期については明確でない局務押小路家伝来した押小路家文書』には「請う藤原姓を以て豊臣姓に改めんことを」云々と記す秀吉の上奏文と、これに応えた天正13年1585年9月9日付の改姓許可する宣旨残されている。一方公卿補任』では、天正14年1586年)の項に、秀吉について「秀吉」(藤原秀吉)と記載したうえで「ーー藤原姓改め豊臣姓となすと云々」と注している。「ーー」とは「月日不明」という意味である。これによれば改姓天正14年1586年になってら行われたことになる。『公卿補任』で秀吉が「豊秀吉」(豊臣秀吉)となるのは天正15年1587年)からである。実は、秀吉官位叙任については、天正10年1582年10月3日の任左近衛少将天正11年1583年5月22日の任参議など、そのことを示す文書残っているものの、あとから日付仮構して偽作したとされているものが少なくない当時秀吉にとっては日付操作して文書偽作することは常套手段であった。また公家たちにとっても天皇日付さかのぼった文書発給求めることは半ば日常的なことであった。『押小路家文書の上奏文宣旨同様の性質のものとみなされている(『大日本史料』第11編之20 天正13年9月9日条など[要追加記述])。実際に秀吉藤原氏から豊臣氏改めたのは、天正14年1586年12月19日太政大臣任官契機としているものとみるのが通説である。

※この「豊臣氏の誕生」の解説は、「豊臣氏」の解説の一部です。
「豊臣氏の誕生」を含む「豊臣氏」の記事については、「豊臣氏」の概要を参照ください。

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