豊臣氏の誕生
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秀吉は氏どころか苗字も持たぬほど下層階級の出身と考えられるが、立身栄達により家系の公称を要するようになると平氏を称した。これは主君・織田信長を模倣したものと考えられており、たとえば『公卿補任』の天正11年(1583年)の項に「従四位下参議」としてはじめて記載されて以降、関白になる直前の天正13年(1585年)の「正二位内大臣」まで、その氏名は一貫して「平秀吉」と記されている。 その後、天正13年(1585年)7月、関白叙任に際し前関白近衛前久の猶子となり、氏を平から藤原に改める。 そして翌天正14年、いよいよ秀吉はその氏を「豊臣」と改める。秀吉が自らの右筆である大村由己に執筆させた『任官之事』(別名『関白任官記』)では「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と単純な前例踏襲は拒否することを述べ「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」として、秀吉は特別に傑出した人物であるから源平藤橘にならぶ第五の新しい氏を創始できるのだ、と高らかに宣言している。 改姓の厳密な時期については明確でない。局務押小路家に伝来した『押小路家文書』には「請う、藤原姓を以て豊臣姓に改めんことを」云々と記す秀吉の上奏文と、これに応えた天正13年(1585年)9月9日付の改姓を許可する宣旨が残されている。一方『公卿補任』では、天正14年(1586年)の項に、秀吉について「藤秀吉」(藤原秀吉)と記載したうえで「ーー藤原姓を改め豊臣姓となすと云々」と注している。「ーー」とは「月日不明」という意味である。これによれば、改姓は天正14年(1586年)になってから行われたことになる。『公卿補任』で秀吉が「豊秀吉」(豊臣秀吉)となるのは天正15年(1587年)からである。実は、秀吉の官位叙任については、天正10年(1582年)10月3日の任左近衛少将、天正11年(1583年)5月22日の任参議など、そのことを示す文書は残っているものの、あとから日付を仮構して偽作したとされているものが少なくない。当時の秀吉にとっては日付を操作して文書を偽作することは常套手段であった。また公家たちにとっても、天皇に日付をさかのぼった文書の発給を求めることは半ば日常的なことであった。『押小路家文書』の上奏文と宣旨も同様の性質のものとみなされている(『大日本史料』第11編之20 天正13年9月9日条など[要追加記述])。実際に秀吉が藤原氏から豊臣氏に改めたのは、天正14年(1586年)12月19日の太政大臣任官を契機としているものとみるのが通説である。
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