織田豊臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 05:00 UTC 版)
天正6年(1578年)から織田信長と誼を通じてはいたものの、幕下に入ったわけではなかった。 天正8年(1580年)に織田氏の武将羽柴秀吉が侵攻してきた。豊国らは一旦は鳥取城に籠城するが、重臣の中村春続、森下道誉ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、単身で秀吉の陣中に赴き降伏した。豊国は秀吉を通じて助命された。城主を失った鳥取城には毛利氏からの援将として吉川経家が送り込まれ、依然として織田氏に対し抵抗を続けた。翌天正9年(1581年)には、吉川経家や自分の旧家臣が籠もる鳥取城攻めに秀吉と共に豊国も従軍した。豊国が籠城した先年は鳥取城に兵糧攻めは通じなかったが、この年の再度の兵糧攻めによって城は陥落した。 秀吉の軍に下った豊国であったが、秀吉からの豊臣氏への仕官の話を断り、浪人となったと伝えられる。のちに摂津国川辺郡の小領主・多田氏の食客となる。 天正14年(1586年)、浜松時代の徳川家康から知遇を得たと伝えられている。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵には豊臣秀吉から家臣ではなかったにもかかわらず、九州肥前名護屋城まで同行を命じられる。
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