ボーア戦争とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 00:20 UTC 版)
「トランスヴァール共和国」の記事における「ボーア戦争とその後」の解説
しかし、こうした急速な繁栄は、当初よりトランスヴァール進出を企図していたイギリスの帝国主義的野心を強めさせることになった。1895年のリンダー・スター・ジェームソン(英語版)とその私兵らによる「ジェームソン侵入事件」(ジェームソン・レイド(英語版))はその一例であり、ついに1899年よりイギリスの帝国主義的侵略戦争であるボーア戦争が開始された。ボーア人は各地でゲリラ的抵抗を続けイギリスを苦しめたが、1902年に敗戦してトランスヴァール共和国は滅亡し、イギリスの直轄植民地「トランスヴァール植民地(英語版、アフリカーンス語版)」とされた。戦争中、金の生産量は10分の1以下にまで低下したほか、焦土戦術に伴う農地の荒廃もひどく、トランスヴァール経済に大きな打撃を与えた。 しかし、イギリスはボーア人との関係改善を図り、1905年にはボーア人農民を勢力基盤とする人民党の成立を認めた。1906年に自治政府が樹立され、1910年に成立した南アフリカ連邦を構成する州の一つ「トランスヴァール州」となった。短期間で経済復興も進められ、鉄道網もさらに整備された。 アパルトヘイト終結後の1994年に行われた州の再編により、東部は東トランスヴァール州(ムプマランガ州)、北部は北トランスヴァール州(リンポポ州)、西部は隣接するケープ州北東部地域と合併して北西州、ヨハネスブルグおよびプレトリアを含む南部はハウテン州に分割された。 なお、1927年から1994年までの南アフリカの国旗では、中央部右側にトランスヴァール共和国の国旗があしらわれていた。
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