ボーア戦争をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 01:02 UTC 版)
「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「ボーア戦争をめぐって」の解説
1899年にイギリスとトランスヴァールが開戦して第二次ボーア戦争が勃発した。この戦争の勃発で自由党議員は主に3つの立場に別れた。政府の戦争遂行を支持するローズベリー伯爵やアスキスら「自由帝国主義派」、反戦を訴えるデビッド・ロイド・ジョージら「親ボーア派」、「今度の戦争は避けられた戦争だが、戦争が始まった以上政府を支持する。ただし早期に講和約を結ぶべし」とする党首キャンベル=バナマンら「中立派」である。1900年7月25日に行われたボーア戦争の是非の採決では自由党のその分裂状態が露わとなり、31名の自由党議員が戦争に反対、40名の自由党議員が戦争に賛成、36名の自由党議員が投票を棄権している。 トランスヴァール共和国首都プレトリアが占領された後の1900年10月に行われた解散総選挙(英語版)では自由党とアイルランド国民党は与党に134議席の大差を付けられた。 この敗北により当分野党生活が続くことが確定した自由党はさらに結束が乱れ、党内対立が激化した。1901年にキャンベル=バナマンがイギリス軍による焦土作戦を批判して世論の反発を買うとローズベリー伯爵やアスキスも激しいキャンベル=バナマン批判を展開した。1902年初頭にはローズベリー伯爵がアスキスやグレイら自由帝国主義派を糾合して「自由連盟(Liberal League)」を結成した。この組織は自由党内に自由帝国主義を広げることを目的としていた。これによって自由党は一時は分裂寸前の状態にまで陥ったが、ボーア戦争が終結に向かう中で党の対立も収束に向かっていった。アスキスの立場も調停役に転じていった。
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