ボーア人のグレート・トレック
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「ズールー戦争」の記事における「ボーア人のグレート・トレック」の解説
詳細は「グレート・トレック」を参照 この頃、英領ケープ植民地ではボーア人(オランダ系植民者)が英国の統治を嫌い集団で北上を始めた。1835年から始まったこのグレート・トレック(内陸大移動)で、ボーア人たちの集団は入植地を求め、原住諸部族と衝突を繰り返した。1838年2月17日、ウィーネンの虐殺(英語版)でディンガネは、フォールトレッカーズ(英語版)(アフリカーンス語: Voortrekkers)のピート・レティーフ(英語版)を始めとする250人のボーア人を虐殺した。12月16日、フォールトレッカーズは、ブラッド・リバーの戦い(英語版)でズールー族を撃破し、この地にナタール共和国を建国した。戦いに敗れたディンガネ王は威信を失い1840年に退位させられ、ムパンデ・カセンザンガコナ(英語版)が即位する。 一方、英国はボーア人の独立を許さず、ナタール共和国へ軍を送り1845年にこれをケープ植民地に併合した。不満を持ったボーア人たちは北東へ移動し1852年ヴァール川以北にトランスヴァール共和国(南アフリカ共和国)を建国する。オレンジ川以北にもオレンジ自由国が建国された。費用の掛かる内陸奥地の統治を嫌った英国政府はこれを承認した。 1856年、ズールー王国ではムパンデ王の息子ムブヤジとセテワヨが内戦を起こし、セテワヨが勝利して正式な王位継承者となった。1872年にムパンデ王が崩御しセテワヨが即位する。 ズールー国王となったセテワヨは彼の叔父シャカの戦術を可能な限り復活させ、更には幾つかの部隊に銃器を装備もさせた。彼はトランスヴァール共和国との紛争中にトランスカイのコサ族に反乱を起こさせ、セククニを援助したと信じられている。 セテワヨはナタール原住民問題担当長官テオフィルス・シェプストン(英語版)と親交があり、英国との関係は比較的平穏だったが、ヨーロッパからやって来る宣教師たちの活動はセテワヨにとっては不愉快なものだった。彼は宣教師たちには危害を加えなかったが、幾人かの改宗者を殺害している。宣教師たちは英国とズールーの敵対の原因の一つだった。例えば、スフリューダー司教はセテワヨについて「有能な男だが、冷酷で自尊心が強く、残忍で不誠実である。これまでの王の中で最悪だ」と述べている。
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