ボーア人との衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
アフリカ南部に最初に到達したヨーロッパ人はポルトガル人である。1488年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰を越え、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインド洋を北上しコルカタに到達した。ポルトガル人はインド洋航路の補給基地としてアフリカ大陸の東に浮かぶモザンビークとンゴラ王国が栄えていた現在のアンゴラの中心に商館を設置した。ポルトガル人はアンゴラ内陸部を探検し、植民の5年後に奴隷貿易を開始した。1580年に始まった奴隷貿易は1863年に廃止されるまで持続した。同じくポルトガル領であったブラジルの農園へ大量の奴隷を送り込む必要があったためだ。奴隷の輸出量はアフリカでも最大であり、アフリカに由来する全奴隷の1/3の輸出を誇っていた。アンゴラとボツワナは「隣国」同士であり、ポルトガル人の探検隊も南西に向かってボツワナへと進んでいった。しかし、ルワンダからボツワナへの道は交通路、交易路として全く用いられておらず、交通条件は劣悪であり、1854年にデイヴィッド・リヴィングストンが初めて踏破するまでは用いられていなかった。このため、奴隷貿易の中心地はナミビア北部となり、ボツワナは奴隷貿易の対象とはならなかった。 最初にアフリカ南部に定住したヨーロッパ人はオランダ人である。1602年にオランダ東インド会社を設立すると、1652年には現在のケープタウンに近いテーブル湾に中継点を設置した。インド洋航路の維持するための補給所、避難所という位置付けである。このときオランダ人はコイに出会っている。1657年には農業を開始、その後、移民費用をオランダ東インド会社が負担することになると、移民の数は急増、1708年には1441名を数えた。地中海岸を除くと、ヨーロッパ人の移民としては最初期のものになる。移民の中核はオランダ本国の農民(ブーア)である。ケープ植民地はドラケンスバーグ山脈の支脈の一つボッシュベルグ山脈の南方幅1000kmの範囲に広がっていった。ここでボーア人とサンが出会う。 オランダ人の植民地は永続しなかった。3次に亘る英蘭戦争の結果、オランダの海上貿易が衰退、1794年にはオランダ東インド会社自体が倒産してしまう。本国からの支援が得られないケープ植民地は1795年、反乱を起こすが、オランダは反乱を鎮圧することもできなかった。ナポレオン戦争を戦っていたイギリスは、ケープ植民地の支配権がフランスに渡ることを恐れ、同年にケープタウンを占領。その後、1803年から3年間、一時的にオランダ支配が戻ったが、1803年に始まったイギリスとフランスの戦闘により、1806年にケープタウンを再占領し、1814年にはウィーン会議の議決によりケープ植民地がイギリスに譲渡された。 イギリスはオランダ人の信教の自由を保障し、オランダの法律も一部残した。オランダ語の使用も認めていた。ケープ植民地内部は平和であった。それとは逆に、ボーア人はボツワナにこそ到達しなかったが、甚大な影響を与えた。まずボーア人のつれて来た家畜が問題となった。当初コイやサンは、ボーア人の家畜を野生動物と見なし、狩猟の対象としたからだ。サンは使役できないため抹殺の対象となり、ボツワナ西部のカラハリ砂漠に隠れることになった。コイは自らも家畜を所有していたため、サンのように移動はできない。サンとは異なり、ボーア人の土地所有も認めなかったため、虐殺の対象となり、わずかに残ったものはボーア人の奴隷となった。ケープ植民地に暮らしていたンデベレ人などバンツー系民族は1820年ごろからしだいに北に追いやられていき、ボツワナとの境界となっていたリンポポ川を越えてさらに北に移住せざるを得なかった。しだいにボツワナの人口は過剰となり、バンツー系民族同士の抗争が激しくなっていく。
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