戦乱の膠着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
治承5年(1181年)都では「養和」と改元されたが、頼朝ら反平氏勢力はこれを認めずに「治承」の元号を用いた。この年から翌年にかけて養和の飢饉という大飢饉が起きたことに加え、平氏政権は安徳天皇の大嘗祭の実施(11月24日)を優先していた。一方『玉葉』養和元年(1181年)8月1日条には、後白河法皇に頼朝から密使が送られ、平氏との和平を提案したことが記されている。畿内を制圧した平氏は北陸や鎮西方面の反乱鎮圧に乗り出し、養和元年(1181年)8月に平通盛・経正を将とする軍を北陸に派遣した。しかし、通盛と経正の連携が上手くいかない上に兵糧不足に悩まされ、反乱を鎮圧することができずに北陸から撤収する。一方で鎮西の反乱勢力に対しては平貞能を派遣し、一年かけてその反乱勢力を降伏させることに成功している。
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