サヴォイア公とは? わかりやすく解説

サヴォイア公

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/18 02:48 UTC 版)

サヴォイア公イタリア語: Duca di Savoia)は、1418年から1860年までのサヴォイア家によるサヴォワ統治の際に用いられた世襲君主号である。現在ではサヴォイア家の儀礼称号の一つとなっている。

概要

サヴォイア家が統治するサヴォワは、1003年ウンベルト・ビアンカマーノが伯爵に叙されたことで伯国として成立した。以後の伯爵は婚姻関係や神聖ローマ皇帝との関係を巧みに効用することで、その領域をピエモンテヴォーニース等に拡大させた。1391年にサヴォイア伯となったアメデーオ8世は死亡した兄弟たちが支配していた領地を回収して自領に組み入れることで伯国を“再統一”して中央集権化を推し進めた。アメデーオ8世は外交能力にも長けており1413年神聖ローマ皇帝ジギスムントから公位を授けられることで自領を公領へと昇格させた。これがサヴォイア公の誕生である。アメデーオ8世は1439年には最後の対立教皇フェリックス5世となっている。カルロ1世リュジニャン家からエルサレム王位を相続したが、これはもちろん名目のみのものである。

ヴィットーリオ・アメデーオ2世の代の1713年に、ユトレヒト条約シチリア国王になることで正式の王号を獲得した。後の1720年ハーグ条約で、シチリアの代償としてサルデーニャ島を得ることで、改めてサルデーニャ国王となり、結果サヴォイア公位はその下位に組み込まれることとなった。ただし、1792年から1815年までのフランスによる支配時代を除いて、王国の主要部をなしていたのはもっぱらサヴォワとトリノ周辺であった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は自身のイタリア統一運動フランスからの支持を得るため、1860年フランス皇帝ナポレオン3世との間でプロンビエールの密約を結んで、代償としてサヴォワとニースを割譲した。これに伴い、サヴォイア公はその実質的な意味を喪失し、翌1861年に成立したイタリア王国国王の称号の一つに組み込まれた。1946年にイタリアで王政が廃止されると、サヴォイア公は以後はサヴォイア家の儀礼称号の一つとなった。

歴代サヴォイア公

サヴォイア公 統治開始 統治終了
アメデーオ8世 1416年 1440年 1
ルドヴィーコ 1440年 1465年 2
アメデーオ9世 1465年 1472年 3
フィリベルト1世 1472年 1482年 4
カルロ1世 1482年 1490年 5
カルロ2世 1490年 1496年 6
フィリッポ2世 1496年 1497年 7
フィリベルト2世 1497年 1504年 8
カルロ3世 1504年 1553年 9
エマヌエーレ・フィリベルト 1553年 1580年 10
カルロ・エマヌエーレ1世 1580年 1630年 11
ヴィットーリオ・アメデーオ1世 1630年 1637年 12
フランチェスコ・ジャチント 1637年 1638年 13
カルロ・エマヌエーレ2世 1638年 1675年 14
ヴィットーリオ・アメデーオ2世 1675年 1713年 15

王号獲得後

1720年サルデーニャ王位を獲得したことでサヴォイア公はその下位に置かれた。

サルデーニャ王およびサヴォイア公 統治開始 統治終了
ヴィットーリオ・アメデーオ2世 1720年 1730年 15
カルロ・エマヌエーレ3世 1730年 1773年 16
ヴィットーリオ・アメデーオ3世 1773年 1796年 17
カルロ・エマヌエーレ4世 1796年 1802年 18
ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 1802年 1821年 19
カルロ・フェリーチェ 1821年 1831年 20
カルロ・アルベルト 1831年 1849年 21
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 1849年 1861年 22

1861年イタリア王国の樹立が宣言されると、サヴォイア公はイタリア王の称号の一つに組み込まれた。

イタリア王およびサヴォイア公 統治開始 統治終了
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 1861年 1878年 22
ウンベルト1世 1878年 1900年 23
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 1900年 1946年 24
ウンベルト2世 1946年 1946年 25

関連項目


サヴォイア公

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 00:33 UTC 版)

サヴォイア=ブレッセ家」の記事における「サヴォイア公」の解説

1496年にサヴォイア公カルロ・ジョヴァンニ・アメデーオカルロ2世)が嗣子亡くして没したことでサヴォイア=ピエモンテ家断絶したサヴォイア家サリカ法典採用はされてはいなかったものの最も近い男系男子という理由大叔父でブレッセ(ブレス地方統治したフィリッポ2世が公位を継承することとなった。これがサヴォイア=ブレッセ家始まり、これを境にしてサヴォイア家継承法は男系男子のみに限られることとなった。なお、サヴォイア家カルロ1世の代に婚姻関係によってキプロス王家からエルサレム国王称号獲得し、この称号フィリッポ2世にも引き継がれることとなったが、エルサレム国王の方は女系による相続認めていたことから王位継承権フィリッポ2世とその姪であるアンナとの間で二分化されている。 フランス王国スペイン神聖ローマ帝国といった列強婚姻を行うことでその抗争間を巧みに生き残ることに成功しエマヌエーレ・フィリベルト一時ポルトガル国王エンリケ1世後継者候補一人となっている。ポルトガル王位は従兄弟スペイン国王フェリペ2世継承したことで果たせなかったものの、1553年にはフェリペ2世によってネーデルラント総督任じられている。

※この「サヴォイア公」の解説は、「サヴォイア=ブレッセ家」の解説の一部です。
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